日清紡社長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 10:05 UTC 版)
戦後の1945年に41歳で社長に就任した際、いち早く精密機械、自動車、エレクトロニクス分野等、現在につながる「非繊維部門」への本格参入を決断した。紡績業は戦後の日本経済復興を主導したが。1950年代半ばをピークに伸びが落ち、重工業化に伴って斜陽した。多くの同業者は社名を変え、合成繊維に転換、オイルショック後、紡績業界が軒並み無配に転落した中にあって、日清紡一社だけが、唯一の安定配当会社として残った。桜田は財界指導者としての立場と、企業経営者としての立場を併立させながら、ともに成功を見た。新入社員には「日清紡は自由主義である」と強調し「フリードリヒ・ハイエクも自由主義の重要さを説いた」と話していたという。19年間社長をつとめ1964年、「社長は60歳まで」という宮島の遺訓を守り取締役会長に退く。
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