日清間の紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)
清国は、満洲善後条約で日本が獲得した利権の無力化を図って行動したため、日清間では次々と紛争が生じた。具体的には、 清国側が新奉鉄道(新民屯 - 奉天)の奉天停車場を奉天城付近に移し、途中で満鉄線を横断する計画を満鉄に打診したが、日本は貨物の流通ルートが変わり、満鉄が打撃を受けるとしてこれを拒否した件 アメリカの奉天総領事ウィラード・ディッカーマン・ストレイト(英語版)が奉天巡撫の唐紹儀を促してイギリスのポーリング商会と新法鉄道(新民屯 - 法庫門(中国語版))の工事請負契約を結んだことに対し、日本側が抗議した件 撤去予定の大石橋・営口間鉄道について、貿易港である営口と満鉄の連絡線として重要であるため、清側にその存続を認めさせる件 日本が経営していた撫順・煙台の炭坑の権利が不明確であるとして、経営をつづけるために権利を確固としたものに改める件 安奉鉄道沿線の鉱山採掘について日清両国人の合同事業とする件 などであった。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、第2次桂内閣へと持ち越された。 1908年11月、光緒帝と西太后が相次いで逝去し、1909年1月には軍機大臣袁世凱が罷免されるなど、北京政界に大変動が続いたためもあって日清交渉は進展しなかった。清国は、清韓国境の間島問題で日本が争いつづけるのならば、満洲に関する案件をすべてハーグの常設仲裁裁判所に付託することも辞さないと通告したが、清の背後にはアメリカ合衆国があり、奉天総領事から民間に移ったストレイトは、ロシアの東清鉄道や日本の満鉄の購入までをも計画していた。山縣有朋らはアメリカによる満洲への干渉を怖れ、それが韓国にもおよぶ可能性があるとの判断に立って間島の問題では清に妥協すべく動いた。桂内閣は、間島領有権を放棄、間島居住の韓国人を対象とする日本の領事裁判権要求も取り下げた。上述した安奉鉄道改築問題も、こうした譲歩によって解決されたのであり、1909年8月、改築工事に関する覚書が調印され、標準軌への改軌が認められた。また、1909年9月4日には間島に関する日清協約と満洲五案件に関する日清協約が結ばれ、清の主張にそって豆満江が清韓国境となり、間島に設けられた雑居地区は開市されて、そこに居住する韓国人の裁判には日本領事が立ち合うこととした。日本は、こうした譲歩の代償として吉林・会寧間鉄道(吉会鉄道)の敷設権を獲得した。
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日清間の紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)
清国は、満洲善後条約で日本が獲得した利権の無力化を図って行動したため、日清間では次々と紛争が生じた。具体的には、 清国側が新奉鉄道(新民屯 - 奉天)の奉天停車場を奉天城付近に移し、途中で満鉄線を横断する計画を満鉄に打診したが、日本は貨物の流通ルートが変わり、満鉄が打撃を受けるとしてこれを拒否した件 アメリカの奉天総領事ウィラード・ディッカーマン・ストレイト(英語版)が奉天巡撫の唐紹儀を促してイギリスのポーリング商会と新法鉄道(新民屯 - 法庫門(中国語版))の工事請負契約を結んだことに対し、日本側が抗議した件 撤去予定の大石橋・営口間鉄道について、貿易港である営口と満鉄の連絡線として重要であるため、清側にその存続を認めさせる件 日本が経営していた撫順・煙台の炭坑の権利が不明確であるとして、経営をつづけるために権利を確固としたものに改める件 安奉鉄道沿線の鉱山採掘について日清両国人の合同事業とする件 などであった。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、第2次桂内閣へと持ち越された。 1908年11月、光緒帝と西太后が相次いで逝去し、1909年1月には軍機大臣袁世凱が罷免されるなど、北京政界に大変動が続いたためもあって日清交渉は進展しなかった。清国は、清韓国境の間島問題で日本が争いつづけるのならば、満洲に関する案件をすべてハーグの常設仲裁裁判所に付託することも辞さないと通告したが、清の背後にはアメリカ合衆国があり、奉天総領事から民間に移ったストレイトは、ロシアの東清鉄道や日本の満鉄の購入までをも計画していた。山縣有朋らはアメリカによる満洲への干渉を怖れ、それが韓国にもおよぶ可能性があるとの判断に立って間島の問題では清に妥協すべく動いた。桂内閣は、間島領有権を放棄、間島居住の韓国人を対象とする日本の領事裁判権要求も取り下げた。上述した安奉鉄道改築問題も、こうした譲歩によって解決されたのであり、1909年8月、改築工事に関する覚書が調印され、標準軌への改軌が認められた。また、1909年9月4日には間島に関する日清協約と満洲五案件に関する日清協約が結ばれ、清の主張にそって豆満江が清韓国境となり、間島に設けられた雑居地区は開市されて、そこに居住する韓国人の裁判には日本領事が立ち合うこととした。日本は、こうした譲歩の代償として吉林・会寧間鉄道(吉会鉄道)の敷設権を獲得した。
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