標準軌への改軌
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「日本の改軌論争」も参照 レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1,524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1,067mm)の狭軌に改築していた。しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435mm)の国際標準軌間に改めておかなければならなかった。 南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道、炭坑、その他の施設を移管されて営業を開始したのは、1907年4月1日のことであった。 * 大連 - 孟家屯 (現、長春南駅) … のちの満鉄連京線 * 南関嶺 - 旅順間 * 営口支線 * 柳樹屯支線 * 煙台支線 * 撫順支線 * 安東・奉天線 満鉄に対する政府命令書には、国際標準軌への改築と大連・蘇家屯間の複線化が定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であった。ロシア設置の広軌を狭軌に改める工事については、枕木はそのままで片側のレールを移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分は比較的容易に進めることができた。しかし、狭軌を標準軌に改軌する工事は枕木更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行をストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった。そこで、狭軌の線路が敷設してある箇所にもう1本レールを敷いて三線式とし、狭軌と標準軌の両方の列車が運行できるようにした。この技術はきわめて複雑なものであったが、満鉄がのちのちまでその技術を誇る水準のものであった。旅順線では1907年12月1日から全面的に標準軌列車に移行した。長春・大連間の本線では1908年5月に移りかわりダイヤグラムをつくり、22日長春・公主嶺間、23日公主嶺・鉄嶺間、24日鉄嶺・遼陽間、25日遼陽・大石橋間、26日大石橋・瓦房店間、27日瓦房店・大連間で標準軌運転へと切り替わり、5月30日からは旅客・貨物の全列車が標準軌列車に移行した。営口線その他の付属線もこの間に標準軌に改軌されている。 不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることとなった。安奉線を除くと還送車両は機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ。これらを並べると延長30キロメートルを超える長さになる計算であった。1908年5月31日、2,000名以上の人が参加して大連港外の周水子駅で異例の機関車の「告別式」が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた。 日露戦争中に2フィート6インチ(762mm)の軍用軽便鉄道として敷設された安奉線については、全面的な改築を必要とした。安奉線は1906年4月1日から狭軌での一般旅客・貨物の輸送を開始していたが、中国側は改築工事を認めなかった。1909年1月から交渉が開始され、3月以降は奉天総督衙門で交渉がなされたものの中国側の姿勢は強硬であった。8月6日、日本政府は清国政府に対し安奉線改築にかかわる最後通牒を発し、8月7日より工事に着手したが、清国側は武装した巡警隊を派遣して工事中止を求めた。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事を強行して1911年11月1日、工事は完成した。工事が遅延したのは、清との交渉が難航したばりではなく、満鉄と外務省の間に主導権争いが生じたことにも原因があった。並行して行われていた鴨緑江の架設工事も完成し、朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった。 鴨緑江の架橋については、ジャンク船の通航の障害にならないよう英米両国より求められていた。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった。日本は朝鮮側(新義州側)から工事を始めたが、中国側は満洲側(安東側)から工事を進めているのではないかと疑い、抗議する場面もあった。鉄橋の一部は橋脚を中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行の障害ではなくなった。また、日本側は当初、架橋された橋のすべてを京義鉄道の所有にしようとしたが、結局、中国側に譲歩して、鴨緑江の中心から二分し、満洲側は安奉鉄道と同様、15年の期限をもって清国側に売却されることとなった。 安奉線で使用された車両については、1911年11月4日、沙河鎮駅で機関車81両、客車680余両の告別式が行われた。こうして多数のB6型機関車も安奉線の軽便機関車も満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製の堂々たる大形機関車であった。また、客車・貨車ともに欧米水準を超える高質な車両がそろえられていった。こののち、満鉄の技術は、狭軌のために内地では実現できないことを具現する場としての意味を有するようになった。
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標準軌への改軌
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1,600 mm (5 ft 3 in) (アイルランドゲージ(英語版))軌間の路線を1,435 mm (4 ft 8 1⁄2 in) 標準軌に変換することが提案されている。
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標準軌への改軌
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「日本の改軌論争」も参照 レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1,524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1,067mm)の狭軌に改築していた。しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435mm)の国際標準軌間に改めておかなければならなかった。 南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道、炭坑、その他の施設を移管されて営業を開始したのは、1907年4月1日のことであった。 * 大連 - 孟家屯 (現、長春南駅) … のちの満鉄連京線 * 南関嶺 - 旅順間 * 営口支線 * 柳樹屯支線 * 煙台支線 * 撫順支線 * 安東・奉天線 満鉄に対する政府命令書には、国際標準軌への改築と大連・蘇家屯間の複線化が定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であった。ロシア設置の広軌を狭軌に改める工事については、枕木はそのままで片側のレールを移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分は比較的容易に進めることができた。しかし、狭軌を標準軌に改軌する工事は枕木更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行をストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった。そこで、狭軌の線路が敷設してある箇所にもう1本レールを敷いて三線式とし、狭軌と標準軌の両方の列車が運行できるようにした。この技術はきわめて複雑なものであったが、満鉄がのちのちまでその技術を誇る水準のものであった。旅順線では1907年12月1日から全面的に標準軌列車に移行した。長春・大連間の本線では1908年5月に移りかわりダイヤグラムをつくり、22日長春・公主嶺間、23日公主嶺・鉄嶺間、24日鉄嶺・遼陽間、25日遼陽・大石橋間、26日大石橋・瓦房店間、27日瓦房店・大連間で標準軌運転へと切り替わり、5月30日からは旅客・貨物の全列車が標準軌列車に移行した。営口線その他の付属線もこの間に標準軌に改軌されている。 不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることとなった。安奉線を除くと還送車両は機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ。これらを並べると延長30キロメートルを超える長さになる計算であった。1908年5月31日、2,000名以上の人が参加して大連港外の周水子駅で異例の機関車の「告別式」が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた。 日露戦争中に2フィート6インチ(762mm)の軍用軽便鉄道として敷設された安奉線については、全面的な改築を必要とした。安奉線は1906年4月1日から狭軌での一般旅客・貨物の輸送を開始していたが、中国側は改築工事を認めなかった。1909年1月から交渉が開始され、3月以降は奉天総督衙門で交渉がなされたものの中国側の姿勢は強硬であった。8月6日、日本政府は清国政府に対し安奉線改築にかかわる最後通牒を発し、8月7日より工事に着手したが、清国側は武装した巡警隊を派遣して工事中止を求めた。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事を強行して1911年11月1日、工事は完成した。工事が遅延したのは、清との交渉が難航したばりではなく、満鉄と外務省の間に主導権争いが生じたことにも原因があった。並行して行われていた鴨緑江の架設工事も完成し、朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった。 鴨緑江の架橋については、ジャンク船の通航の障害にならないよう英米両国より求められていた。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった。日本は朝鮮側(新義州側)から工事を始めたが、中国側は満洲側(安東側)から工事を進めているのではないかと疑い、抗議する場面もあった。鉄橋の一部は橋脚を中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行の障害ではなくなった。また、日本側は当初、架橋された橋のすべてを京義鉄道の所有にしようとしたが、結局、中国側に譲歩して、鴨緑江の中心から二分し、満洲側は安奉鉄道と同様、15年の期限をもって清国側に売却されることとなった。 安奉線で使用された車両については、1911年11月4日、沙河鎮駅で機関車81両、客車680余両の告別式が行われた。こうして多数のB6型機関車も安奉線の軽便機関車も満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製の堂々たる大形機関車であった。また、客車・貨車ともに欧米水準を超える高質な車両がそろえられていった。こののち、満鉄の技術は、狭軌のために内地では実現できないことを具現する場としての意味を有するようになった。
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