標準軌への改軌とは? わかりやすく解説

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標準軌への改軌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)

南満洲鉄道」の記事における「標準軌への改軌」の解説

日本の改軌論争」も参照 レール間隔変更改軌)は、初期満鉄大きな問題だった。もともとロシア敷いた軌間は5フィート(1,524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部日本から持ち込んだ内地用の車両走行可能なように3フィート6インチ1,067mm)の狭軌改築していた。しかし、朝鮮半島中国東北部長城以南中国通じて一貫輸送体系整えるという観点からすれば、この鉄道朝鮮中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435mm)の国際標準軌間改めておかなければならなかった。 南満洲鉄道株式会社野戦鉄道提理部から以下の鉄道炭坑その他の施設移管されて営業開始したのは、1907年4月1日のことであった。 * 大連 - 孟家屯 (現、長春南駅) … のちの満鉄連京線 * 南関嶺 - 旅順間 * 営口支線 * 柳樹支線 * 煙台支線 * 撫順支線 * 安東奉天満鉄対す政府命令書には、国際標準軌への改築大連蘇家屯間の複線化定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であったロシア設置広軌狭軌改め工事については、枕木そのまま片側のレール移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分比較容易に進めることができた。しかし、狭軌標準軌改軌する工事枕木更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行ストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった。そこで、狭軌線路敷設してある箇所にもう1本レール敷いて三線式とし、狭軌標準軌両方列車運行できるようにした。この技術きわめて複雑なものであったが、満鉄のちのちまでその技術を誇る水準のものであった旅順線では1907年12月1日から全面的に標準軌列車移行した長春大連間の本線では1908年5月移りかわりダイヤグラムをつくり、22日長春公主嶺間、23日公主嶺鉄嶺間、24日鉄嶺遼陽間、25日遼陽大石橋間、26日大石橋瓦房店間、27日瓦房店大連間で標準軌運転へと切り替わり5月30日からは旅客貨物の全列車標準軌列車移行した営口その他の付属線もこの間標準軌改軌されている。 不要になった狭軌機関車日本還送されることとなった安奉線を除くと還送車両機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ。これらを並べると延長30キロメートル超える長さになる計算であった1908年5月31日、2,000名以上の人参加して大連港外の周水子駅異例機関車の「告別式が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた。 日露戦争中に2フィート6インチ(762mm)の軍用軽便鉄道として敷設され安奉線については、全面的な改築を必要とした。安奉線1906年4月1日から狭軌での一般旅客貨物輸送開始していたが、中国側改築工事認めなかった。1909年1月から交渉開始され3月以降奉天総督衙門交渉なされたものの中国側姿勢強硬であった8月6日日本政府清国政府対し安奉線改築にかかわる最後通牒発し8月7日より工事着手したが、清国側武装した巡警隊を派遣して工事中止求めた。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事強行し1911年11月1日工事完成した工事遅延したのは、清との交渉難航したばりではなく満鉄外務省の間に主導権争い生じたことにも原因があった。並行して行われていた鴨緑江架設工事完成し朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった鴨緑江架橋については、ジャンク船通航障害ならないよう英米両国より求められていた。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった。日本朝鮮側新義州側)から工事始めたが、中国側満洲側(安東側)から工事進めているのではないか疑い抗議する場面もあった。鉄橋一部橋脚中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行障害ではなくなった。また、日本側は当初架橋されたのすべてを京義鉄道所有にしようとしたが、結局中国側譲歩して鴨緑江中心から二分し満洲側は安奉鉄道と同様、15年期限をもって清国側売却されることとなった安奉線使用され車両については、1911年11月4日沙河鎮駅機関車81両、客車680余両の告別式が行われた。こうして多数B6機関車安奉線軽便機関車満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製堂々たる大形機関車であったまた、客車貨車ともに欧米水準超える高質車両そろえられていったこののち満鉄技術は、狭軌のために内地では実現できないこと具現するとしての意味を有するようになった

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標準軌への改軌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:29 UTC 版)

ブラジルの鉄道」の記事における「標準軌への改軌」の解説

1,600 mm (5 ft 3 in) (アイルランドゲージ(英語版))軌間路線を1,435 mm (4 ft 8 1⁄2 in) 標準軌変換することが提案されている。

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標準軌への改軌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)

南満州鉄道」の記事における「標準軌への改軌」の解説

日本の改軌論争」も参照 レール間隔変更改軌)は、初期満鉄大きな問題だった。もともとロシア敷いた軌間は5フィート(1,524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部日本から持ち込んだ内地用の車両走行可能なように3フィート6インチ1,067mm)の狭軌改築していた。しかし、朝鮮半島中国東北部長城以南中国通じて一貫輸送体系整えるという観点からすれば、この鉄道朝鮮中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435mm)の国際標準軌間改めておかなければならなかった。 南満洲鉄道株式会社野戦鉄道提理部から以下の鉄道炭坑その他の施設移管されて営業開始したのは、1907年4月1日のことであった。 * 大連 - 孟家屯 (現、長春南駅) … のちの満鉄連京線 * 南関嶺 - 旅順間 * 営口支線 * 柳樹支線 * 煙台支線 * 撫順支線 * 安東奉天満鉄対す政府命令書には、国際標準軌への改築大連蘇家屯間の複線化定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であったロシア設置広軌狭軌改め工事については、枕木そのまま片側のレール移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分比較容易に進めることができた。しかし、狭軌標準軌改軌する工事枕木更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行ストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった。そこで、狭軌線路敷設してある箇所にもう1本レール敷いて三線式とし、狭軌標準軌両方列車運行できるようにした。この技術きわめて複雑なものであったが、満鉄のちのちまでその技術を誇る水準のものであった旅順線では1907年12月1日から全面的に標準軌列車移行した長春大連間の本線では1908年5月移りかわりダイヤグラムをつくり、22日長春公主嶺間、23日公主嶺鉄嶺間、24日鉄嶺遼陽間、25日遼陽大石橋間、26日大石橋瓦房店間、27日瓦房店大連間で標準軌運転へと切り替わり5月30日からは旅客貨物の全列車標準軌列車移行した営口その他の付属線もこの間標準軌改軌されている。 不要になった狭軌機関車日本還送されることとなった安奉線を除くと還送車両機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ。これらを並べると延長30キロメートル超える長さになる計算であった1908年5月31日、2,000名以上の人参加して大連港外の周水子駅異例機関車の「告別式が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた。 日露戦争中に2フィート6インチ(762mm)の軍用軽便鉄道として敷設され安奉線については、全面的な改築を必要とした。安奉線1906年4月1日から狭軌での一般旅客貨物輸送開始していたが、中国側改築工事認めなかった。1909年1月から交渉開始され3月以降奉天総督衙門交渉なされたものの中国側姿勢強硬であった8月6日日本政府清国政府対し安奉線改築にかかわる最後通牒発し8月7日より工事着手したが、清国側武装した巡警隊を派遣して工事中止求めた。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事強行し1911年11月1日工事完成した工事遅延したのは、清との交渉難航したばりではなく満鉄外務省の間に主導権争い生じたことにも原因があった。並行して行われていた鴨緑江架設工事完成し朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった鴨緑江架橋については、ジャンク船通航障害ならないよう英米両国より求められていた。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった。日本朝鮮側新義州側)から工事始めたが、中国側満洲側(安東側)から工事進めているのではないか疑い抗議する場面もあった。鉄橋一部橋脚中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行障害ではなくなった。また、日本側は当初架橋されたのすべてを京義鉄道所有にしようとしたが、結局中国側譲歩して鴨緑江中心から二分し満洲側は安奉鉄道と同様、15年期限をもって清国側売却されることとなった安奉線使用され車両については、1911年11月4日沙河鎮駅機関車81両、客車680余両の告別式が行われた。こうして多数B6機関車安奉線軽便機関車満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製堂々たる大形機関車であったまた、客車貨車ともに欧米水準超える高質車両そろえられていったこののち満鉄技術は、狭軌のために内地では実現できないこと具現するとしての意味を有するようになった

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