事変発生から交渉団派遣まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 21:10 UTC 版)
「済物浦条約」の記事における「事変発生から交渉団派遣まで」の解説
壬午事変によって漢城を脱出し、仁川で英国軍艦フライングフィッシュ[:en]に保護され長崎へと帰還した花房義質は、直ちに東京へと電報を発し事変の発生を報知した。 報せを受けた日本政府は花房を弁理公使として再度渡朝させることに決定。花房に交渉の基本方針を訓令した上で明治丸に乗船させて仁川へと派遣した。日本政府は朝鮮政府の事件への関与と公使がその身分を保護されず加害を受ける可能性を深く懸念しており、使節団の護衛には軍艦5隻と陸軍約1個大隊相当が動員されるなど物々しい船出となった。 事変の発生を察知した清国からは直ちに「両国間を調停したい」「日本公使館は我が属邦に在るので兵を派して護衛したい」との報せがあったが、日本政府は文中の「属邦」表現もあってこれを拒否。しかし清国は馬建忠が率いる清国軍を朝鮮に派遣し、乱の鎮圧を指導させた。 日本交渉団が仁川に到着する頃には既に湾内には清国戦艦の姿もあり、交渉努力によって事変を解決しようとする日本と、宗主国として武力によって乱を鎮圧しようとする清国の神経戦が既にこの時点で始まっていたといえる。
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