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大垣丈夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/19 14:48 UTC 版)

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大垣 丈夫(おおがき たけお、文久元年12月19日1862年1月18日) - 昭和4年(1929年2月3日)は、明治期の志士アジア主義者大陸浪人ジャーナリスト。朝鮮で『大韓協会』『大韓自強会』など数々の排日団体を組織し、『大韓民報』を創刊して、日韓併合に反対した。号は金陵

経歴

加賀国(現・石川県金沢市)生まれ。

明治13年(1880年)に金沢第一師範学校を卒業後、東上して慶應義塾に入学。在学中に郷友の中橋徳五郎と交わり、野田卯太郎と共に早くより政治運動に奔走した。明治20年(1887年)に卒業後に尾崎行雄の知遇を得て奈良に入り、『大和新聞』の主筆となり、加賀の『石川日日新聞』主筆を経て明治32年(1899年)に東京に上り、『さくら新聞』を創刊した。

新聞経営が伊藤博文の目に留まり、以後は伊藤の側近として仕え、明治38年(1905年)に渡韓し、韓国統監府警務局の情報委員として統監府のパイプ役を務める。李完用の資金援助を受けて、金嘉鎭・呉世昌・尹孝定・呂炳鉉・權東鎭・李鍾一・李宇榮・沈宜性・尹孝定らと共に『大韓協会』『大韓自強会』等の排日団体を起こしてその顧問となり、自ら『大韓民報』を創刊して鮮人教導に務めた。他、「大東斯文会」や「儒道振興会」に参加。

内田良平が「一進会」を組織して、日韓合併運動を起こすとこれに反対し、東洋の盟主が日本であることを前提とするアジア連帯論「日韓中三国同盟」を唱えて対抗した。のちに敗れて日韓併合が成立すると、感ずる所あって朝鮮を出て支那を漫遊する。しかし、大正元年(1912年)には朝鮮に戻り、同3年(1914年)に京城通信社の社長に就任。「朝鮮通」の先覚者として活躍。

以来、京城府協議員、昭和2年(1927年)に道評議員となり、日本の統治下における内鮮融和に貢献した。69歳で京城で没した。

著書

参考文献

  • 黒龍会編『東亜先覚志士記伝』(黒龍会出版部、1933年-1936年)



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