れんにょ【蓮如】
蓮如
蓮如
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 08:29 UTC 版)
蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨[4]では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「蓮如」と「辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である[5] 。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。
- ^ 文献によっては、「蓮」の「辶」(一点之繞)の部分が「辶」(二点之繞)で「蓮如」と表記される場合もある。(一点之繞と二点之繞を参照。)
- ^ 『蓮如』 - コトバンク
- ^ a b c グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。
- ^ 真宗十派の内、本願寺派・大谷派のみ蓮如を歴代とする。
- ^ 蓮如…大谷派では、「蓮」の字は「辶」(二点之繞)を用いて表記するのが正式であるため、「蓮如」と表記するのが正式である。
- ^ a b c d e f 草野顕之 1998a, p. 14.
- ^ 東上高志『川端分館の頃』p.154。
- ^ 高山秀夫『江戸から東京へ 物語でつづる部落の歴史』p.6(文理閣、1977年)
- ^ 母が大谷家(本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている。
- ^ 草野顕之 1998a, p. 16.
- ^ 青蓮院は延暦寺大衆による本願寺の破却に反対して仲裁に奔走したが両者の折り合いが付かず、本願寺を延暦寺西寺塔の末寺とする契約を結ばせることで事態の収拾を図った(大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)) ISBN 4-7924-0589-0 p15-17)。
- ^ “近松別院(札の辻)”. 大津のかんきょう宝箱. 大津市. 2019年8月12日閲覧。
- ^ 消息…「御叱りの御書」、「騒動しずめの御書」と呼ばれる。(参考文献『蓮如上人の生涯と教え』57 - 58頁)
- ^ 第80話 蓮如 (1415 〜 1499年) - 関西・大阪21世紀協会
- ^ 『御文』という呼び方は、大谷派にて用いられ、『御文章』という呼び方は本願寺派にて用いられる。
- ^ 本尊に関する参考文献『蓮如上人の生涯と教え』67~68頁、『蓮如上人ものがたり』105~109頁
- ^ 常楽寺空覚光崇の子。
- ^ 興行寺周覚玄真の孫、興行寺蓮実の子。
- ^ 興行寺周覚玄真の孫。
- ^ 祐心が生んだ男子の1人が庭田家を継承して庭田重親と名乗ったが、彼の娘(顕能尼)が第10世証如の正室となって顕如を生んだ。
- ^ 超勝寺頓円鸞芸の曾孫、超勝寺如遵の孫、超勝寺功遵の子。
- ^ 常楽寺蓮覚光信の孫、常楽寺如覚兼忠の子。
- ^ “蓮如上人ゆかりの伝承頭骨はシャチだった 大阪・八尾の顕証寺”. 産経新聞電子版 (産経新聞社). (2018年6月23日) 2019年7月23日閲覧。
蓮如
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本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
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