寂如とは? わかりやすく解説

寂如

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 00:49 UTC 版)

寂如

慶安4年7月28日 - 享保10年7月8日(旧暦)

1651年9月12日(グレゴリオ暦換算)[1] - 1725年8月15日(グレゴリオ暦)
幼名 房麿
法名 寂如
院号 信解院
光常、興賢
尊称 寂如上人
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
寺院 西本願寺
良如
弟子 湛如、静如、住如
大谷本廟
テンプレートを表示

寂如(じゃくにょ)は、江戸時代前期の浄土真宗浄土真宗本願寺派第14世宗主。西本願寺住職。は光常。院号は信解院。法印大僧正。父は第13世良如九条兼晴猶子。母は近江国三井の人(揚徳院寂照)。室は鷹司信房の娘(貞淑院如瑞)。第16世湛如は10男。子は第15世住如の妻・瑞光院如浄、静如。弟は河内国顕証寺住職寂淳、播磨国本徳寺住職寂円。

生涯

寛文元年(1661年)11歳で左大臣九条兼晴猶子となって得度し、宗祖400回忌に出座する。寛文2年(1662年)良如の死により自身12歳の若さで西本願寺14世宗主となる。寛文7年(1667年)には関白鷹司信房の娘である貞淑院如瑞と結婚する。父が成し遂げられなかった経蔵の建立や、大谷本廟の再建を行っている。廟堂再建の際にしたためられた親鸞聖人絵像の画讃は寂如の作。

真宗大谷派との差異を付けるため、お経の節回しに天台宗のような声明を取り入れたりしてこれまでのやり方を改めている。元禄2年(1689年)には初めて報恩講の差定を堂内に貼り、これまで行われてきた坂東曲を停めて八句念仏和讃とした。

子供の多くは早世しており跡を継ぐ予定の10男湛如がまだ幼かったので第15世には娘婿の住如を就けた。

親鸞聖人絵像画讃
韜名愚禿畏人知
高徳弥彰澆季時
誰了如来興世意
直標淨典囑今師

脚注

  1. ^ 本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生年を用いる。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「寂如」の関連用語

寂如のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



寂如のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの寂如 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS