九条兼晴とは? わかりやすく解説

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九条兼晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/02 19:32 UTC 版)

 
九条 兼晴
時代 江戸時代前期
生誕 寛永18年2月6日1641年3月17日
死没 延宝5年11月12日1677年12月6日
諡号 後往生院
官位 正二位左大臣
主君 後光明天皇後西天皇霊元天皇
氏族 鷹司家九条家
父母 父:鷹司教平、母:冷泉為満の娘
養父:九条道房
兄弟 鷹司房輔、高賢、兼晴、信賀、俊海
鷹司信子鷹司房子
正室:待姫(九条道房の娘)
輔実二条綱平住如
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九条 兼晴(くじょう かねはる)は、江戸時代前期の公卿九条家第20代当主。

略歴

寛永18年(1641年)に鷹司教平冷泉為満の娘の三男として生まれる。兄に鷹司房輔三宝院門跡高賢、弟に大乗院門跡信賀、随心院門跡俊海、妹に江戸幕府5代将軍徳川綱吉正室御台所鷹司信子霊元天皇中宮鷹司房子(新上西門院)がいる[1]

正保4年(1647年1月10日薨去した九条道房(父の又従兄弟)に息子が無かったため、道房の娘待姫の婿養子となって九条家を継いだ。ただし幼少のため、養祖父の九条幸家が後見人となった[2]

同年10月15日に元服、翌正保5年(慶安元年、1648年1月15日従三位左近衛中将承応元年(1652年10月12日正三位に叙せられ、11月30日権中納言に任じられた。翌承応2年(1653年7月20日に幸家と共に花町宮良仁親王(後の後西天皇)の江戸下向へ同行、承応3年(1654年12月18日権大納言に任じられた[3][4][5][6][7]

承応4年(1655年1月5日従二位明暦2年(1656年12月26日橘氏是定万治2年(1659年1月13日には左近衛大将に任じられ、12月22日正二位に昇り、寛文4年(1664年5月2日内大臣、翌寛文5年(1665年3月6日右大臣をへて寛文11年(1671年5月7日左大臣となる[3][4][5]

京狩野の画家狩野永納は兼晴の兄弟高賢・俊海の下へ出入りしてそれぞれ注文を請け負い、寛文6年(1666年)2月に高賢の注文で『十二ヶ月花鳥図』を描き上げて納品したこと、俊海にも絵2枚を献上したことが確認されており、兼晴も永納と接触、同年4月4日に永納が兼晴の前で花鳥の扇5枚を描いた記録が残されている[8]。また、次男の綱平二条光平の養子へ出した関係で、綱平と親しい尾形光琳が描き上げた作品『孔雀立葵図屏風』が九条家に伝わったのは、綱平と兼晴の父子関係から派生した可能性があるとされる[9][10]

延宝5年(1677年)11月12日、37歳で薨去。号は後往生院[4][5]

系譜

脚注

  1. ^ 五十嵐公一 2010, p. 92-94.
  2. ^ 五十嵐公一 2012, p. 60-62,64.
  3. ^ a b 野島寿三郎 1994, p. 268.
  4. ^ a b c 小和田哲男 2003, p. 265.
  5. ^ a b c 橋本政宣 2010, p. 51.
  6. ^ 久保貴子 2008, p. 143.
  7. ^ 五十嵐公一 2012, p. 61.
  8. ^ 五十嵐公一 2010, p. 108-111,124-128.
  9. ^ 久保貴子 2008, p. 207-208.
  10. ^ 五十嵐公一 2010, p. 157-159,168-169.

参考文献




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