大乗院 (門跡寺院)
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大乗院(だいじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。第4代院主・信円(藤原忠通の子)の頃に門跡寺院とされ、院主は大乗院門跡と呼ばれた。中世には同じく門跡寺院である一乗院門跡とともに交代で興福寺別当を務めた[1]。
歴史
寛治元年(1087年)に隆禅(藤原政兼の子)によって興福寺の北方に創建された[2]。ところが、治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討で全焼した[2]。そのため養和元年(1181年)に禅定院跡地に移築されたが、宝徳3年(1451年)に発生した徳政一揆で伽藍の大半を焼失し、翌年から復興を開始した[2]。この復興において尋尊から作庭を委ねられた善阿弥が手掛けた庭園が旧大乗院庭園である[2]。
江戸時代初期以降、一乗院は皇子や皇族が入室して門跡となったため、門主は南都一乗院宮とも宮門跡とも呼ばれ、奈良の人達からは「一乗院さま」と呼ばれていたのに対し、大乗院は摂関家の子弟が門跡を務めることから摂家門跡と呼ばれ、奈良の人達からも「大乗院どの」と呼ばれた。そういったことからも分かるように大乗院は一乗院よりも格式は高くなかった[1]。
大乗院は廃仏毀釈の影響で明治初年に廃寺となり[3]、1872年(明治5年)までには御殿が個人宅となった[2]。1874年(明治7年)には建物の一部が更新舎(後に鵲小学校)の学舎となった[2]。その後、1883年(明治16年)に建物跡地に飛鳥小学校が開校したが、1900年(明治33年)に当地から再移転している[2]。
1909年(明治42年)に奈良ホテルが開業すると[2]、旧大乗院庭園はホテルの南側に隣接する庭園となるなど[3]、1955年(昭和30年)頃まで同ホテルの敷地となっていた[2]。
1958年(昭和33年)には跡地に旧国鉄の保養宿泊施設が建設されるとともに[2]、同年には旧大乗院庭園が国指定名勝となった[2][4]。2003年(平成15年)には旧大乗院庭園が名称追加指定を受け、保養宿泊施設は撤去されることとなった[2]。
1973年(昭和48年)から財団法人観光資源保護財団(後の公益財団法人日本ナショナルトラスト)が庭園の管理を行っている[4]。
脚注
出典
参考文献
- 浅見雅男『もうひとつの天皇家 伏見宮』筑摩書房、2020年4月。
関連項目
外部リンク
- 名勝旧大乗院庭園 - 日本ナショナルトラスト
- 名勝大乗院庭園文化館 - 奈良市 文化施設
- 大乗院_(門跡寺院)のページへのリンク