寂念とは? わかりやすく解説

じゃく‐ねん【寂念】

読み方:じゃくねん

仏語雑念取り去った静かな心。


寂念

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 22:26 UTC 版)

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寂念 / 藤原為業
時代 平安時代後期
生誕 永久2年(1114年)頃[1]
死没 不明
改名 為業→寂念
別名 通称:伊賀入道
官位 従五位上皇后宮大進
主君 崇徳天皇近衛天皇藤原呈子)→後白河天皇
氏族 藤原北家長良
父母 父:藤原為忠
母:橘大夫娘(待賢門院女房)
兄弟 為盛、寂念為経頼業、兼豪、忠宴、昌忠、藤原光房室、藤原俊成室、
平忠盛室?
為賢、業盛、経業、雅業、寛忠、範玄二条院三河内侍
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寂念(じゃくねん)は、平安時代後期の貴族歌人。俗名は藤原 為業(ふじわら の ためなり)。藤原北家長良流、丹後守藤原為忠の次男。官位従五位上皇后宮大進。通称は伊賀入道

経歴

文章生から鳥羽院政期初頭の大治4年(1129年少内記に任ぜられ、崇徳天皇六位蔵人も務める。伊豆守伊賀守を歴任後、仁平元年(1141年)より中宮権大進皇后宮大進として、近衛天皇の中宮(のち皇后)藤原呈子に仕えた。

保元3年(1158年)頃に出家し東山の霊山に隠棲する[2]。法名を寂念と称し、同じく出家した兄弟の寂超寂然と共に大原三寂・常盤三寂と呼ばれた。寂超・寂然は主に大原に閑居したが、寂念が大原に住んだかどうかは明らかでなく、主に常磐にいたと想定される[3]

若い頃より父・藤原為忠が主催する歌合に度々参加し、九条兼実藤原重家俊恵源頼政平忠度等とも親交が厚く、各地の歌合にも招かれている。寿永元年(1182年)に作られた『一品経和歌懐紙』の作者とされ、死去したのはそれ以後とされている。なお、文治3年(1187年)子の範玄が季御読経を重喪を理由に辞退しており[4]、これを範玄の親すなわち寂念の死による喪とする説もある[5]

人物

弟2人よりも後世の評価は低いとされるものの、当時を代表する歌人として知られ、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に6首が入集。落ち着きのある歌風で知られた。

官歴

系譜

  • 父:藤原為忠
  • 母:橘大夫(橘俊宗?)の娘 - 待賢門院女房
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原為賢
    • 男子:藤原業盛
    • 男子:藤原経業
    • 男子:藤原雅業
    • 男子:寛忠
    • 男子:範玄(1137-1199)
    • 女子:二条院三河内侍

脚注

  1. ^ 井上宗雄「常磐三寂年譜考」『平安後期歌人伝の研究』笠間書院、1978年
  2. ^ 『宝物集』
  3. ^ 井上[1960: 106]
  4. ^ 『玉葉』文治3年3月22日条
  5. ^ 『後白河院時代歌人伝の研究』314頁
  6. ^ a b 『中右記』
  7. ^ 『宇槐雑抄』
  8. ^ 『本朝世紀』
  9. ^ a b c 『兵範記』
  10. ^ 井上[1960: 106]

出典

  • 井上宗雄「常磐三寂年譜考」『国文学研究 21』早稲田大学国文学会、1960年
  • 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』(笠間書院、2005年 ISBN 4-305-70296-7



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