藤原清正とは? わかりやすく解説

藤原清正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/03 16:25 UTC 版)

 
藤原 清正
藤原清正(狩野尚信『三十六歌仙額』)
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 天徳2年(958年)7月
官位 従五位上紀伊介
主君 朱雀天皇村上天皇
氏族 藤原北家良門流
父母 父:藤原兼輔、母:不詳
兄弟 雅正清正、守正、庶正、公正、桑子
不詳
光舒、女子、源守清室
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藤原 清正(ふじわら の きよただ)は、平安時代中期の貴族歌人藤原北家良門流、中納言藤原兼輔の次男。官位従五位上紀伊介三十六歌仙の一人。

経歴

延長8年(930年従五位下叙爵朱雀朝では紀伊権介・備前権守備後権守と地方官を歴任する。

天慶9年(946年)4月の村上天皇即位に伴い昇殿を許されると、10月に右兵衛権佐、翌天暦元年(947年)には五位蔵人、天暦9年(955年左近衛少将に任ぜられるなど、武官を務めながら天皇に近侍した。この間の天暦3年(949年)には従五位上に叙せられている。

天徳2年(958年)7月卒去。最終官位は左近衛少将従五位上兼紀伊介。

朱雀村上朝の宮廷歌人であり、『天暦九年内裏紅葉合』『天暦御時内裏前栽合』『天暦御時中宮歌合』といった天暦年間に開催された内裏歌合に出詠し、多くの屏風歌を制作した。壬生忠見藤原敦忠らとの交流があった[1]。『後撰和歌集』(8首)以降の勅撰和歌集に計28首が入集[2]。他選家集として勅撰集的な構成を取る『清正集』がある[3]

官歴

注記のないものは『三十六人歌仙伝』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原兼輔
  • 母:不詳 - 『後撰和歌集』に「清正母」として入集
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原光舒
    • 女子:源守清室
    • 女子:不詳 - 『拾遺和歌集』に「清正女」として入集

脚注

  1. ^ 『日本人名大辞典』
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  4. ^ 『拾遺和歌集』に豊前守まさたたと見える(宮崎[1990: 426])
  5. ^ 『九条殿記』
  6. ^ 『蔵人補任』
  7. ^ 『近衛府補任』

参考文献

関連項目





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