桃生城と雄勝城の造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「桃生城と雄勝城の造営」の解説
天平宝字3年(759年)9月、陸奥国桃生城と出羽国雄勝城がほぼ同時期に完成した。 雄勝城は孝謙太上天皇の父である聖武天皇によって命じられていたものの、大野東人が果たせず終わった難事業だったが、藤原朝猟らが蝦夷を教導しつつ一戦も交えず完成させた。 桃生城は黒川以北十郡のひとつ牡鹿郡の当時の領域より大河北上川(旧北上川)を東へ越えた対岸の丘陵地帯に築かれた。天平宝字元年8月より1年足らずの間に1690人の蝦夷や俘囚が帰降してきたので、天平10年閏7月14日(738年9月2日)の勅に準じて水田耕作を営ませて王民とし、辺境守備軍に充てることが定められている。『続日本紀』天平宝字2年6月11日(758年7月20日)の記事中で「帰降(まつろ)へる夷俘」について「或は本土を去り離れて、皇化に帰慕し、或は身を戦場に捗りて、賊と怨を結ぶ」と述べられていることから、桃生城の造営が契機となって蝦夷社会内部に分裂や内紛が形成されていった可能性が考えられる。
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