桃生城襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:52 UTC 版)
ところが、光仁天皇が征夷決行の勅を下した2日後の宝亀5年7月25日(774年9月5日)、駿河麻呂は海道蝦夷が橋を焼き、道を塞いで往来を絶ち、桃生城を襲撃して西郭を破ったことを報じる陸奥国解を急ぎ都へ送った。 同年8月2日(774年9月12日)、朝廷は坂東八国に勅を下し、陸奥国から急を告げてきた場合には直ちに援兵を派遣できるよう、国の大小によって500から2000人の軍兵を集めて待機させておくよう命じている。
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