三十八年戦争及び徳政相論以後の城柵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)
「城柵」の記事における「三十八年戦争及び徳政相論以後の城柵」の解説
蝦夷と朝廷との緊張関係は、宝亀5年(774年)7月、海道蝦夷が蜂起し桃生城を攻撃するに至り、ついに均衡が破れることとになる。この後2,3年程で急速に情勢が悪化し、蝦夷社会と朝廷との汀であった辺郡ばかりでなく、胆沢・志和・秋田周辺なども巻き込んで陸奥・出羽両国が全面的な戦争の時代に至ったのである。以降朝廷により執拗な征夷が繰り返され、大規模な戦争の最終局面となる阿弖流爲(アテルイ)と坂上田村麻呂の対決を経て、延暦24年(805年)の徳政相論の後、 弘仁2年(811年)の文屋綿麻呂による最後の大規模な征夷まで戦乱の時代が続く。前後の時代とは明らかに様相を異にするこの時代の戦乱を、虎尾俊哉は「三十八年戦争」と命名している。昭和50年(1975年)に著された虎尾の論は、この戦争を律令国家と「アイヌ国家」との戦争と捉え、蝦夷とアイヌをそのまま同一視するものであり、アイヌ、蝦夷双方の研究が進展した後代においてそのまま認める事は出来ないものだが、宝亀5年(774年)から弘仁2年(811年)までの38年間を戦乱の時代と捉える歴史認識は平安時代初の当時において既に存在しており、「三十八年戦争」の語は今日の学会でもほぼ定着している。 「三十八年戦争」と命名されるこの時代は、征夷の方法によって更に三期に区分される。第I期は、宝亀5年(774年)桃生城襲撃から宝亀11年(780年)覚鱉城(かくべつじょう)造営計画が持ち上がるまでの6年間で、陸奥国・出羽国の現地官人と現地兵力を中心とした征夷が行われていた時期である。しかし、覚鱉城造営の計画が持ち上がった宝亀11年(780年)、伊治呰麻呂の乱により事態は新たな局面を迎える。第II期はその呰麻呂の乱から、桓武天皇の治世末期の延暦24年(805年)に行われた徳政相論による征夷中止の決定までの25年間で、朝廷主導のもと征夷軍が編成され、大規模な軍事行動が繰り返された時期である。延暦20年の征夷で大将軍坂上田村麻呂が胆沢の地を平定。翌年胆沢城の造営に着手し、蝦夷の族長であった阿弖流爲と母礼(モレ)が降伏するに至って、大規模な征夷の時代は終わりを迎えた。第III期は徳政相論から弘仁2年(811年)までの6年間である。先年蝦夷への軍事侵攻に勝利したとはいえ既に国力の限界に達しており、蝦夷政策の転換を迫られていた朝廷側は、疲弊した東国を征夷に関する負担から解放することに主眼を置いた。弘仁2年(811年)には「征夷終結のための征夷」と位置付けられる文屋綿麻呂による最後の征夷が行われたが、兵力は全て陸奥国・出羽国から徴募されたものであり、その中に朝廷側に帰服した蝦夷で構成される俘軍を含む。その後も不安な情勢はなおも続くが、弘仁2年閏12月に文屋綿麻呂は征夷の時代の終結を宣言し、征夷と呼ばれた軍事活動は史上から絶えることになるのである。 「三十八年戦争」を経て、この時期(9世紀初)に現れた城柵が胆沢城、志波城、第II次雄勝城説が有力視される払田柵跡、城輪柵、そして徳丹城である。この時代の城柵はそれまでの丘陵地ではなく(かつ、地形上の制約を受ける不整形の外郭でなく)、平地上に方形で作られている。 阿弖流爲と母礼の降伏及び処刑を挟んで、胆沢城は延暦21年(802年)、志波城は延暦22年(803年)に造営が開始された(それぞれ現在の岩手県奥州市及び盛岡市)。それまで陸奥国の国府機構と鎮守府とで兼任となっていた官制を分離し、多賀城から胆沢城に鎮守府が移された。この官制の分離は、胆沢地方の征服により拡大した朝廷の支配域に対し、陸奥国司が鎮守府官人を兼ねる従来の官制では対応できなくなったためと考えられ、鎮守府は胆沢城を拠点として陸奥国北部を支配する統治機関へと変質していくこととなる。 多賀城に代わる新たな鎮守府となった胆沢城は、一辺約670m四方の築地塀による外郭と、一辺約90mの政庁を持ち、外郭南門は多賀城の規模を上回る、正面5間の重層門となっていた。胆沢城の翌々年に造営が開始された志波城はそれをさらに凌駕する一辺840m四方、推定高さ4.5mの築地塀による外郭を持ち、当初は胆沢城より重要な城柵だったものと推定されている。時期をほぼ同じくして出羽国でも、払田柵跡が東西1,370m、南北780mという規模で造営されている(現在の秋田県大仙市、美郷町)。 これらの城柵が史上最大規模で造営されたのは、当時の朝廷がまだ北に向かって支配を拡大する意思を持っていたことのあらわれであると考えられる。事実、志波城が完成したとみられる延暦23年正月には、坂上田村麻呂が再度征夷大将軍に任命され、桓武期での第四次征討計画が検討されている。しかし、この征夷計画は副将軍、軍監、軍曹などの人事が行われたもののその後進展せずに、翌年の徳政相論により都の造作と征夷の中止が国家の方針として決定されるに至って、計画が破棄されることとなった。これは、桓武天皇の治世で行われた都の造作(長岡京、平安京)と征夷により、民衆の疲弊と国家財政の窮乏が進んだことで方針転換に至らざるを得なかったためであり、治世末期に行われたこの徳政相論のおよそ3か月後に、桓武天皇は崩御している。 桓武天皇の崩御を受けて即位した平城天皇及び、平城天皇から譲位された嵯峨天皇の治世でも、徳政相論で示された方針が踏襲されることとなった。平城天皇の治世はおよそ3年と短いが、中央の官司を整理したり、参議を廃して観察使を設置するなど財政と民生の回復に意を注ぐものであり、軍事政策についても版図不拡大の方針が確立する時期である。嵯峨天皇についても、平城天皇が行った政策の是正がしばしば行われたものの、弘仁2年(811年)の文屋綿麻呂の征夷は長年の征夷政策を終結させるために行った事業であり、徳政相論の方針と矛盾する性質のものではない。この時期の政策は、長年征夷政策を遂行するための人的・物的資源の供給源とされ、疲弊の著しかった東国の諸負担を開放することに主眼が置かれており、柵戸については延暦21年正月に胆沢城周辺に東国の浮浪人4,000人が送り込まれたのを最後に実施されず、鎮兵についても大同年間(806年-810年)に東国からの派遣が停止されて、陸奥・出羽両国からの徴発に改められた。 最後の征夷が行われた弘仁2年(811年)の閏12月、征夷将軍であった文屋綿麻呂は陸奥国の鎮兵3,800人を段階的に1,000人まで削減し、陸奥国に置かれていた4個軍団4,000人の兵力も2個2,000人まで縮小することを奏請した。この縮減の動きと関連して城柵の再編が行われ、史上最大規模の城柵であった志波城に代わって築かれたのが、最後の城柵である徳丹城である(現在の岩手県紫波郡矢巾町)。志波城が雫石川に近く、しばしば氾濫による水害を被ることを理由とした理由とした移転だが、徳丹城は志波城より南に10kmほど後退し、外郭の規模も志波城の一辺約840mから一辺約355mへと大幅に縮小された。これは徳政相論以後の律令国家が、従前の版図拡大政策を放棄して現状維持に転換したことを示す考古学的な証左であるとみられる。また、以前から残る城柵に収められていた武器や食糧も他所に移され、この時に伊治城や中山柵が廃止されたものと推測されている。弘仁6年(815年)には鎮兵の制度が完全に廃止され、城柵の守備は軍団の兵士と、勲位を有する者を兵士に指定した健士によって担われることとなった。なお、発掘調査により、徳丹城の機能も9世紀半ばまでには廃絶したものと推測されている。
※この「三十八年戦争及び徳政相論以後の城柵」の解説は、「城柵」の解説の一部です。
「三十八年戦争及び徳政相論以後の城柵」を含む「城柵」の記事については、「城柵」の概要を参照ください。
- 三十八年戦争及び徳政相論以後の城柵のページへのリンク