三十八年騒乱の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「三十八年騒乱の終結」の解説
弘仁2年12月13日(811年12月31日)、嵯峨天皇は詔を発して征夷将軍文室綿麻呂に従三位、副将軍佐伯耳麻呂に正五位、大伴今人と坂上鷹養に従五位下、鎮守副将軍物部匝瑳足継に外従五位上が授与された。 弘仁2年閏12月11日(812年1月28日)、綿麻呂は「今官軍一挙して、寇賊遺るもの無し」と述べて、陸奥国の鎮兵3800人を段階的に1000人にまで削減し、軍団兵士を四団4000人から二団2000人に削減する大幅な軍備縮小の実施を奏上する。そして「宝亀五年より当年に至るまで、惣て三十八歳、辺寇屡動きて、警□絶ゆること無し」と述べて38年におよぶ征夷の時代が終わったことを宣言する。 志波城の移転先は徳丹城で『類聚三代格』から弘仁3年3月中に移転が完了したことがわかる。 綿麻呂の征夷は、徳政相論による征夷中止の方針に沿って行われたもので、征夷終結のための征夷と評されている。
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