三十六人衆とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/28 02:37 UTC 版)
酒田は、戦国時代には自由都市で、36人の大商人が月番三人ずつ12ヶ月で町政や町の行事を担当し、最上義光の支配権を得た後もこの体制で統治が進んでいた。 寛永年間(1624年〜1644年)には、筆頭格の豪商・池田惣左衛門(屋号「鐙屋(あぶみや))は「北国一番の米の買い入れ、惣左衛門という名を知らざるはなし」(井原西鶴「日本永代蔵」)とも言われていた。 この36人のことを「三十六人衆」と呼び、元は滅亡した奥州藤原氏の家臣で、武士はニ君に仕えずという意識と誇りがあり、1622年(元和8年)に最上家に代わって酒井家が庄内藩主として来てからも町人自治組織が維持された。庄内藩も36人の野心の無い誇りと町民からの信頼を認め、名字・帯刀を許し、宅地に対して無税としている。このため、酒田には豊富な米を利用した酒造家が沢山存在していた。
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