三十人僭主政の樹立と戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 23:20 UTC 版)
「クリティアス (三十人僭主)」の記事における「三十人僭主政の樹立と戦死」の解説
紀元前404年、アテナイがスパルタに無条件降伏すると、クリティアスは帰国し、テラメネスらと共に、スパルタの将軍リュサンドロス(Lysandros, 紀元前5世紀後半-395)の武力と保護を背景に三十人少数党派の独裁政権を樹立した。次々に反対派を死刑や国外追放に処し、ソクラテスに「次々に牛を減じて質を悪化させた牛飼い」と皮肉られる。これを受けクリティアスは、ソクラテスに30歳以下の若者との会話を禁じた。またアルキビアデスの人気に危機感を覚え、リュサンドロスに働きかけ、当時プリュギアへ亡命していたアルキビアデスの暗殺を依頼したと言われる。やがて穏健派のテラメネスと過激派のクリティアスは決裂し、クリティアスはテラメネスを処刑した。 紀元前404年の12月、テバイへ亡命していた民主派トラシュブロスが武装抵抗団を組織し、アテナイのペイライエウス港を占領してアクロポリスに立てこもった。紀元前403年の1月、ペイライエウス奪還のためクリティアスは軍を率いるが、ムニュキアの戦いで従弟のカルミデス(Charmides, 紀元前450 - 403)らと共に戦死する。トラシュブロスの一派には、後にソクラテスを告発するアニュトス(Anytos, 5世紀後半-4世紀前半)も所属していた。クリティアスとアルキビアデスの所業は、ソクラテスが死刑となる原因となったと考えられている。
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