上京・大正時代とは? わかりやすく解説

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上京・大正時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 23:11 UTC 版)

河野通勢」の記事における「上京・大正時代」の解説

1914年大正3年3月旧制長野中学第14回生として卒業同年10月第1回二科展初入選。 この頃から長与善郎土屋増治郎らを頼り上京するうになる一時的滞在)。通勢が岸田劉生初め出会ったのは1915年大正4年)のことであるが、長野に居る頃から岸田のことは知っていたとされる肖像画から、代々木と土を克明に描く風景画へとシフトしていた岸田劉生は、最新西欧美術吸収していた日本の美術状況の中で厳しい批判を受けつつも、木村荘八とともに土社を創設し新たな出発をしていた。デューラーといったルネサンス美術興味移していた通勢は、自分と同じ志向をもつ岸田強く意識しており、岸田の家に素描持っていって批評受けてもいる。岸田才能認められ1916年大正5年)の第3回土社展に素描出品第6回土社展からは同人加わり最終回第11回まで出品をした。ただしその題材宗教画挿絵等が多く岸田劉生椿貞雄木村荘八といった他のメンバーのような土社に典型的な風景画は殆どなかった。この頃作品には、自画像肖像画も多い。同年二科展入選果たしたほか、1917年大正6年)の文展にも入選する。 大正半ばから後半にかけて、正教聖伝題材をとった絵画聖書場面描いた絵画や、聖書挿絵など、キリスト教題材をとった作品数多い。通勢の幼少時には長野にも日本正教会教会があり(長野ハリストス正教会復活会堂現存せず)、通勢もここに掲げられていたイコン見て祈っていた。このイコン中には山下りんよるもの含まれている。1919年白樺主催の『聖書挿画展覧会』では、通勢の60余の作品展示されている。この題材には油彩画少なくないが、ペン画や、墨で描かれた作品が多い。 長く親交続けた武者小路実篤とは、191617年頃に知り合った。通勢の遺した文章中には武者小路との思想的親近感うかがわせるものも含まれている。 1917年11月24日野村定吉二女光子結婚。通勢が描いた肖像画中にはこの妻のものも含まれている。 1914年大正3年)の銅版画作品1914年7月4日付)が残されている。既に確かな技法認められ、これ以前制作していた蓋然性が十分ある。河野銅版画80数種見つかっており、質・量ともに大正時代これだけ制作をした版画家見当たらない特徴的な題材二つあり、ひとつは聖書挿画もう一つ震災図である。1923年9月1日起こった関東大震災震災風景銅版画とし、記録性・臨場感伝える事に成功している(この中にはニコライ堂罹災情況含まれている)。 1923年関東大震災で、震災打撃受けた土社が活動停止し岸田京都移住した以降浅草など東京現代的な風俗描いた土呂絵や、浮世絵題材などの芝居関連の作品増えていく。土社活動停止以後の活動春陽会求めたが、2回出品しただけで岸田劉生とともに脱会武者小路実篤らが創設した大調和会展、椿貞雄らが参加していた国画会などで作品発表していく。 カリカチュア分野にも興味示し多く作品残されている。

※この「上京・大正時代」の解説は、「河野通勢」の解説の一部です。
「上京・大正時代」を含む「河野通勢」の記事については、「河野通勢」の概要を参照ください。

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