上京・大正時代
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1914年(大正3年)3月、旧制長野中学を第14回生として卒業。同年10月、第1回二科展に初入選。 この頃から長与善郎、土屋増治郎らを頼り上京するようになる(一時的滞在)。通勢が岸田劉生と初めて出会ったのは1915年(大正4年)のことであるが、長野に居る頃から岸田のことは知っていたとされる。 肖像画から、代々木の草と土を克明に描く風景画へとシフトしていた岸田劉生は、最新の西欧美術を吸収していた日本の美術状況の中で厳しい批判を受けつつも、木村荘八らとともに草土社を創設し、新たな出発をしていた。デューラーといったルネサンス美術に興味を移していた通勢は、自分と同じ志向をもつ岸田を強く意識しており、岸田の家に素描を持っていって批評を受けてもいる。岸田に才能を認められ、1916年(大正5年)の第3回草土社展に素描を出品。第6回草土社展からは同人に加わり、最終回の第11回まで出品をした。ただしその題材は宗教画・挿絵等が多く、岸田劉生、椿貞雄、木村荘八といった他のメンバーのような、草土社に典型的な風景画は殆どなかった。この頃の作品には、自画像・肖像画も多い。同年の二科展に入選を果たしたほか、1917年(大正6年)の文展にも入選する。 大正の半ばから後半にかけて、正教の聖伝に題材をとった絵画・聖書の場面を描いた絵画や、聖書の挿絵など、キリスト教に題材をとった作品が数多い。通勢の幼少時には長野にも日本正教会の教会があり(長野ハリストス正教会復活会堂、現存せず)、通勢もここに掲げられていたイコンを見て祈っていた。このイコンの中には山下りんによるものも含まれている。1919年の白樺主催の『聖書挿画展覧会』では、通勢の60余の作品が展示されている。この題材には油彩画も少なくないが、ペン画や、墨で描かれた作品が多い。 長く親交を続けた武者小路実篤とは、1916、17年頃に知り合った。通勢の遺した文章の中には、武者小路との思想的な親近感をうかがわせるものも含まれている。 1917年11月24日、野村定吉の二女光子と結婚。通勢が描いた肖像画の中にはこの妻のものも含まれている。 1914年(大正3年)の銅版画の作品(1914年7月4日付)が残されている。既に確かな技法が認められ、これ以前に制作していた蓋然性が十分ある。河野の銅版画は80数種見つかっており、質・量ともに大正時代にこれだけの制作をした版画家は見当たらない。特徴的な題材が二つあり、ひとつは聖書挿画、もう一つは震災図である。1923年9月1日に起こった関東大震災の震災風景を銅版画とし、記録性・臨場感を伝える事に成功している(この中にはニコライ堂の罹災情況も含まれている)。 1923年の関東大震災で、震災の打撃を受けた草土社が活動を停止し、岸田が京都に移住した頃以降、浅草など東京の現代的な風俗を描いた土呂絵や、浮世絵の題材などの芝居関連の作品が増えていく。草土社活動停止以後の活動を春陽会に求めたが、2回出品しただけで岸田劉生とともに脱会。武者小路実篤らが創設した大調和会展、椿貞雄らが参加していた国画会などで作品を発表していく。 カリカチュアの分野にも興味を示し、多くの作品が残されている。
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