上京・国士舘へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:27 UTC 版)
1976年に筒井中学校を卒業して東京の国士舘高校へ入学した。高校2年の夏、金鷲旗大会では3位に終わったもののインターハイでは団体決勝戦で代表戦に出場してこれに快勝し、国士舘高校を東京勢初の優勝校に導いた。翌78年も金鷲旗大会でこそ優勝には及ばなかったものの、インターハイでは団体優勝して2連覇を達成したほか、個人戦でも大宮工業高校の今川直明に次ぐ準優勝という成績を残している。1979年に国士舘高校から国士舘大学体育学部へ進学すると、同年10月の全日本学生選手権では1年生ながらに首尾よく勝ち進み、決勝戦で後に永く斉藤の前に立ちはだかる事となる当時全日本3連覇中の山下泰裕5段(東海大学4年生)と初めて対戦。ポイントこそ奪えなかったものの返し技で山下をグラつかせるなど善戦し、最後は崩上四方固に抑え込まれて敗れた。それでも翌日の新聞では一面で、その活躍振りから“ポスト山下”や“山下2世”といった具合に書き立てられたという。 斉藤は大学時代、1979年から81年まで全日本新人体重別選手権の重量級を3連覇し、4年次の1982年には全日本学生体重別選手権を獲得するなど当時の学生柔道界において頭一つ抜きん出た存在であった。シニアでも全日本選抜体重別選手権で81年に優勝し、檜舞台の全日本選手権では81年・82年と連続して出場して、それぞれ遠藤純男6段と松井勲5段に敗れたもののその名を全国に知らしめた。また、団体戦では国士舘大学チームの主軸として全日本学生優勝大会で81年と82年に同大を準優勝と3位へ導いている。
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