上京までとは? わかりやすく解説

上京まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:44 UTC 版)

泉鏡花」の記事における「上京まで」の解説

1873年明治6年11月4日石川県金沢市下新町生まれる。父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工白銀職の系譜属す象眼細工彫金などの錺職であった。母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸生まれ幼少期における故郷金沢母親思い出後年に至るまで鏡花愛惜措く能わざるものとなり、折にふれて作品中に登場する1880年明治13年4月市内養成小学校現・金市立馬場小学校)に入学1883年明治16年12月に母が次女・やゑ出産直後産褥熱のため逝去し享年29)、鏡花幼心に強い衝撃を受ける1884年明治17年6月父とともに石川郡松任摩耶夫人像に詣った。このとき以来鏡花終生摩耶信仰保持した9月金沢高等小学校進学翌年には日本基督一致教会ミッション・スクール北陸英和学校転じ英語を学ぶが、1887年明治20年)にはここも退学し市内井波他次郎私塾で英語などを講じた1889年明治22年4月友人下宿において尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学志すうになる。また6月富山旅行。この時期叔母などに小遣いせびって貸本濫読するとともに私塾講師のようなことを務めていたが、11月紅葉の門下に入ることを志して上京1891年明治24年10月19日、ついに牛込紅葉宅を訪ね快く入門許されて、その日から尾崎家での書生生活を始める。翌年12月金沢市大火の際に一時帰郷した以外、鏡花尾崎にあって原稿整理雑用にあたり紅葉の信頼勝ち得る

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上京まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 06:34 UTC 版)

内藤湖南」の記事における「上京まで」の解説

1866年慶応年間陸奥国毛馬内村(現:秋田県鹿角市十和田毛馬内)にて、南部藩士・内藤調一1832年 - 1908年。号は十湾)と容子次男として生まれる。父・十湾は折衷学派属していた。 6歳で『大学』をわずか4ヶ月習得し7歳で『二十四孝』と四書習得し13歳時で『日本外史』を通読し、さらに詩作始める。友人世間評判も「学問出来て決して威張らず喧嘩など一度したことがない。感心な子どもだ」というものであった秋田師範学校入学後も、一人キリスト教会通いアメリカ人のガルスト・スミスについて『万国史』などを勉強した1884年明治17年秋田師範学校4年かかる課程2年半で卒業して10代綴子(つづれこ)小学校主席訓導実質的に校長)となる。

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上京まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 10:03 UTC 版)

広沢虎造 (2代目)」の記事における「上京まで」の解説

少年時代から浪花節好み腕自慢素人として天狗連で15-16歳ごろには「東川春燕」の名で人気取っていた。共立電気電線現在のアンリツ)に就職していたが、それを辞める電気工事職人として、東京駅大時計取り付け作業もしたという。地元初代木村重松東家小楽燕に弟子入り志願する。が小音断られ、どうしてもプロになるべく、冨士月子の手引きで講釈師の旭堂麟生のもとに19歳時に通ってネタ仕込む。後に「修業(芸を磨くの)は関西で、人気(を上げるの)は東京関東)で」と(芸界で)よく言われるように当時関西浪曲界の巨頭であった浪曲師2代目広沢虎吉弟子入りする初め広沢春円、広沢天勝、後に天華名乗る1922年23歳2代目広沢虎造襲名

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上京まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 05:10 UTC 版)

堅山南風」の記事における「上京まで」の解説

1887年9月12日熊本県熊本市三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早く父母失い以後祖父によって養育された。1898年熊本市立壺川小学校卒業経て高木高等小学校入学1年時写生した「ざくろ」が図画教師称賛された。この頃地元を描く画家として著名であった雲林院山に傾倒していた。 1904年生家破産により家を閉じ西子飼町源空寺居候した。同年9月には養育受けていた祖父死去している。翌1905年より図書館通い木版印刷書籍口絵模写するなどしていた。翌々年1906年より地元画家福島師事1909年同郷山中神風に連れられて上京した。このとき、上京する電車車中にて「南風」の画号を自ら選んだ。号は『十八史略尭舜篇』のうち「南風之詩」から取ったのだった上京後神風の紹介により高橋広湖門下となった

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上京まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 16:02 UTC 版)

薮内正幸」の記事における「上京まで」の解説

1940年大阪府港区生まれる。大阪学芸大学附属天王寺小学校(現・大阪教育大学附属天王寺小学校)、大阪市立天王寺中学校経て1959年大阪府立夕陽丘高等学校卒業小学生ころから動物見た描いたりするのが好きで、動物園に行くと目当て動物前に行っていつまでもずっと見続けていたという。小学3年生当時動物学者高島春雄手紙やり取り始め、のち今泉吉典鷹匠丹羽有得らとも文通するうになる高校3年時には大正から昭和にかけて活躍した小林重三鳥類画に感動し、『鳥類原色大図説』にある小林のワシタカ類の挿絵をすっかり模写するまでになったこのころ福音館書店編集長松居直は「世界で最も詳しい動物図鑑」の刊行企画し挿絵描き手を探していた。松居相談受けた今泉がまだ高校生薮内から届いたはがきのイラスト見せて推薦松居大阪に赴き薮内説得薮内迷ったものの、己の好きな道をゆくべしと恩師に諭されて、高校卒業上京動物画の描き手として福音館書店入社し動物画家としての勉強開始する

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