出生から上京まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:40 UTC 版)
1907年、長野県東筑摩郡神林村(現松本市)で農家の三男として生まれた。小学生の頃は野球に熱中していたが、小学校担任の影響で書にも関心が向くようになり、秋山白巌の内弟子として2年間指導を受けた。松本教育実業学校を卒業後、訓導として小学校に勤務する一方、師範学校の受験準備も進め、1925年に長野師範学校に入学した[要出典]。師範学校3、4年の時には信濃毎日新聞と長野県が共催する県展に作品を応募し、連続して最高賞を獲得した(特に、4年の時の審査は比田井天来が行っており、審査後の講評において信山の号をつけられた)。 1929年師範学校を卒業。卒業後は小学校に勤務したが4年後に辞職し上京。天来と田代秋鶴の指導を受けながら、1935年大東文化学院(現在の大東文化大学)本科漢文科卒業、成蹊学園小学部訓導となり宮島詠士に師事。1938年文検に合格。1941年大東文化学院高等科(現在の大学院修士課程)卒業。1942年成蹊高等学校教諭。
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