出生からブランド立ち上げ以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:10 UTC 版)
「クリスチャン・ディオール」の記事における「出生からブランド立ち上げ以前」の解説
「ディオール#生い立ち」も参照 1905年、クリスチャン・ディオールはフランス北西部ノルマンディー地方、マンシュ県・グランヴィルで、モーリス・ディオールの5人の子供の内の2人目として生まれる。父親は肥料の生産事業を行う裕福な家庭であった。 彼が5歳のころに、一家はパリへと移住する。しかしながら、夏のヴァカンスのたびにノルマンディーの海岸へと戻っていた。彼の両親は息子に外交官になってほしいという望みがあった。そのため、1920年から1925年12月までフランスのパリ政治学院に学ぶ。しかしながら、彼自身は芸術に強い興味を持っていた。また、彼はそれを明かさなかったがゲイであった。結局、1928年に父親からの出資をもとにして、友人と共に小さなアートギャラリーを持ち、パブロ・ピカソやマックス・ジャコブなどの画を置いた。だが、3年後、世界恐慌によって彼の父親がその資産を失ったことを受けて、ギャラリーも閉鎖を余儀なくされる。 1937年、ディオールはロベール・ピゲに雇われ、そこでピゲのコレクションのためにデザインをする機会を得た。後年、ディオールは「ピゲからシンプルであることの長所によって真のエレガンスが現れることを教わった」と語っている。ディオールがピゲのためにデザインしたもののなかには、例えば'Cafe Anglais'などがあり、これは好意的に受け入れられた。同時期のピゲの下ではピエール・バルマンもおり、ディオールとバルマンは共に働いていた。しかし、徴兵によってディオールはピゲの下を離れることになる。 1942年になって軍隊から戻ったディオールは、リュシアン・ルロンのファッションハウスに加わる。同時期のルロンの下にはピエール・バルマンもおり、ここでもディオールとピエール・バルマンは主要なデザイナ-であった。 第二次世界大戦勃発からナチス・ドイツによるフランス占領の間は、フランスのファッション業界を持続させる経済的・芸術的な理由などにより、ルロンの下にいたディオールはナチスの高官やそれに協力するフランス人の夫人のためのドレスなどをデザインすることを余儀なくされた。なお、これはジャン・パトゥ、ジャンヌ・ランヴァン、ニナ・リッチなどその他の多くのブランドでも同様で、そのクチュールメゾンを戦時下で経営維持するために半ば避けられない状態であった。 彼がその様な仕事を余儀なくされていた一方、フランスレジスタンスに参加していた彼の妹カトリーヌ (1917—2008年) がゲシュタポによって拘束され、ラーフェンスブリュック強制収容所に収容されてしまっていた。(しかしカトリーヌは生き延び、1945年5月に解放される)
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