出生から上京・鉄道経営への参加とは? わかりやすく解説

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出生から上京・鉄道経営への参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 18:37 UTC 版)

早川徳次 (東京地下鉄道)」の記事における「出生から上京・鉄道経営への参加」の解説

山梨県東八代郡御代咲村現在の笛吹市一宮町東新居)に生まれる。父の常富は御代咲村長を務めた人物三女四男をもうけ、徳次はその末子である。母「ゑひ(栄)」は徳次出生翌年死去している。長兄富平山梨県会議員務めた人物で、笛吹川廃河川開拓したことで知られる小松導平も兄にあたる。 旧制甲府中学現在の山梨県立甲府第一高等学校)を経て第六高等学校現在の岡山大学)に入学するも、2年時に病気になり中退余儀なくされた。その後上京して早稲田大学入学する。父や兄と同じよう政治家志し在学中後藤新平書生となった1908年明治41年)に早稲田大学卒業すると、後藤総裁務め南満州鉄道満鉄)に入社した後藤逓信大臣鉄道院総裁就任する満鉄辞職し鉄道院入局する。早川は妻の叔父である望月小太郎から東武鉄道二代目社長にもなった同郷根津嘉一郎紹介される早川鉄道本格的に関わるうになるのは郷里先輩である根津見出されてからである。根津取得していた佐野鉄道現在の東武佐野線)は苦しい経営状態が続いていたが、1911年明治44年)に根津から見込まれ依頼され同社赴任した早川見事にその経営再建成功した続いて1912年明治45年)に、沿線開発進まず予想より輸送量低迷したことや、高コスト体質が元で赤字経営続いていた高野登山鉄道現在の南海高野線)も根津から任せられると、早川はこの会社2年半ほどで立て直し期待応えた。これらによって根津右腕となり辣腕振るった

※この「出生から上京・鉄道経営への参加」の解説は、「早川徳次 (東京地下鉄道)」の解説の一部です。
「出生から上京・鉄道経営への参加」を含む「早川徳次 (東京地下鉄道)」の記事については、「早川徳次 (東京地下鉄道)」の概要を参照ください。

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