苦しい経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
運行開始当初の登山電車 運行開始当初の鋼索線 1919年6月1日、小田原電気鉄道の延長線となる鉄道線(登山電車)の運行が開始された。しかし、この日からは富士屋自働車の乗合自動車の運行も開始された。登山電車と乗合自動車が同時に開業したのでは、人力車夫や駕籠かきも大きな抵抗はできず、やがて姿を消してゆくことになった。1921年7月25日からは、小田原電気鉄道でも小涌谷と箱根町を結ぶ乗合自動車の運行を開始し、富士屋自働車に対する対抗策としたが、小田原電気鉄道と富士屋自働車の乗客争奪は激しいもので、1922年12月3日には両社の社員同士による乱闘事件まで発生した。 登山電車の開業後の1921年、既に免許を得ていた下強羅から上強羅を結ぶ鋼索線(ケーブルカー)の建設に着手した。鋼索線は軌条・車両・巻上げ装置はすべてスイス製のものを使用し、同年12月1日に開業した。これは日本においては1918年に開業した生駒鋼索鉄道に続く2番目の鋼索鉄道である。 なお、1920年10月21日にはのちに東海道本線の新線となる熱海線が国府津から小田原までの区間で開業することに伴い、軌道線については小田原駅前と小田原町役場前を結ぶ区間を建設し、熱海線の開業と同日から運行を開始した。これに伴い、国府津から小田原までの軌道線については同年12月6日に廃止された。 しかし、当初の登山電車は山を登るときにだけ利用され、下りは歩いて湯本まで出る利用者も多かった。さらに、建設費を賄うための借入金の返済は経営上重荷となり、借入金の利子は当時の小田原電気鉄道の支出の4割近くを占めており、毎年赤字を計上している有様であった。そのような状況下で経営破綻を回避できたのは、1913年から軽便鉄道補助法により支給されていた補助金があったからであるとされている。 1920年には二ノ平から分岐して元箱根に至る電気鉄道の路線、強羅から水戸野(2012年時点での箱根町宮城野)と湖尻・元箱根を経由して箱根町に至る路線、水戸野から御殿場に至る路線、湖尻から芦ノ湖の湖西を経由して箱根町に至る路線、さらに1922年には三島と箱根町を結ぶ路線の敷設を出願しているが、いずれも実現に至っていない。
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