苦との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 16:37 UTC 版)
釈迦は四諦の二番目において、苦の中核的原因として渇愛を特定した。 Idaṃ kho pana bhikkhave dukkhasamudayaṃ ariyasaccaṃ: yā’yaṃ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatra tatrābhīnandanī,yeyyathīdaṃ: kāmataṇhā bhavataṇhā vibhavataṇhā 比丘等よ、苦集聖諦とは此の如し、後有を齎し、喜貧倶行にして随處に歓喜する渇愛なり、謂く、欲愛、有愛、無有愛なり。 —パーリ仏典, 律蔵犍度, 大犍度, 38 Mahakkhandhakaṃ, Sri Lanka Tripitaka Project ウォルポーラ・ラウーラ(英語版)によれば、タンハーとされる「渇き、欲望、貪欲、渇望」とは、苦と再生として現れるものである。しかしラウーラによれば、それは苦や輪廻の原因というだけではない、なぜならばすべての創造は相対的であり、何かに依存しているためである。パーリ仏典では苦の原因として、渇愛のほかにも、煩悩を述べている。しかし渇愛は常に冒頭で取り上げられ、中核的なものとして認識され、苦の「もっとも明確で直接的な原因」だとラウーラは述べている。 ピーター・ハーヴェイによれば、仏教において渇愛は苦の主要な起源であるという。苦は渇愛の精神状態が反映されたものである。世界とは常に変化し続けており、また本質的に不完全なものであるが故に、渇愛が大きくなれば、欲求不満も大きくなる。渇愛はまた、人間間の衝突や喧嘩を引き起こすため、苦痛をもたらす。これらはすべて苦である。釈迦は2つめの諦にて、渇愛は再生をもたらし、終わりなき輪廻をもたらすと述べた。 さらに渇愛の3タイプを示しており、それは感覚(的快感への執著)、存在(への執著)、非存在(への執著)である。仏教用語では、正見と邪見があり、邪見では最終的に渇愛につながる。しかし「一般的には正見であるもの」、たとえば僧侶への寄付なども、執着の面があるのだという 。渇愛の終わりは、人が「超越的な正見」を手に入れたときに起こり、それは無常と無我への洞察を通して得られるという 渇愛はまた、十二因縁において8番目に挙げられている。そこでは「次の生を生み出すカルマの力をはぐくむ」とされている。人は6つの感覚器官(六根)より絶え間なく流れ入る情報のため、それに応じて渇愛が発生するのである。
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