出生から中学卒業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:27 UTC 版)
生まれた時には体重が4,200gあった。出生当初の山本を見た看護師が「この子は相撲取りにするしかない」と言ったと、山本は母から聞いている。1歳の頃、当時東京都大田区にあった自宅アパートから転落して死にかけ、頭蓋骨陥没骨折により1か月の入院を余儀なくされた。その後も左の額の上から右の後頭部にかけて骨折の痕跡が残ったというほどの重症であり、事故が起こった際に医者は「今夜がヤマだ」と宣告したが回復を果たし、小学校入学前に脳波検査を受けた際には「異常なし」であった。1歳の頃から牛乳をジュース代わりに飲んで体を作ったと豪語するほどで、1日2リットル飲むこともざらであったといい、小学生になると牛乳が嫌いな友達はみな山本の元へ給食の牛乳を持って行ったという。山本の幼少期は、野球で遊ぶのが当たり前の環境で育った。 茅ヶ崎市立松林小学校・茅ヶ崎市立松林中学校出身で、中学に進学すると昼食は弁当持参で牛乳のみが配られるが、山本は牛乳が好きであったのでご飯との組み合わせでも平気で口にできたといい、このような牛乳好きが体作りに大きく貢献したという見方もある。野球チームに初めて入ったのは小学3年生の時。初めて試合を行ったのは4年生の時であるが、当時所属していた「緑ヶ丘グリーンタイガース」は『がんばれ!ベアーズ』に例えられるほどの弱小チームであり、ゴロは弾くわフライは落とすわで、結局0-36という大敗に終わった。山本はこの時を「それでも楽しかった」と振り返っており、同時に「ほかに楽しみがなかったからと言えばそうかもしれない」とも付け加えている。因みにその次の試合は0-10と失点数が大幅に減少しており、著書で「へたでもうまくなれる。そこが野球の楽しさでもあるのだから」と解説している。小学校6年生になると横浜市から茅ヶ崎市へ転居したが、そこで見つけた「ブラックサニーズ」では挫折し、エースにはなれなかった。中学時代は軟式野球部に所属しており、2年生の時にエースを張っていた同級生が腰を患ったため自身がエースナンバーを託された。中学校3年の夏、所属する野球部で神奈川県大会に出場し、日大藤沢高にスポーツ推薦で入学する。山本は後に「この活躍があってやっといくつかの高校からの勧誘を受けたが、それがなければ普通に受験をして学力に見合った県立高校に進学していた」と述懐している。
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