出生から中津帰藩、長崎遊学とは? わかりやすく解説

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出生から中津帰藩、長崎遊学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)

福澤諭吉」の記事における「出生から中津帰藩、長崎遊学」の解説

天保5年12月12日1835年1月10日)、摂津国大坂堂島新地五丁目現・大阪府大阪市福島区福島一丁目にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷下級藩士福沢百助と妻・於順の間に次男末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する福沢氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福沢あるいは同国諏訪郡福沢村発祥として、前者清和源氏村上氏為国流、後者諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した詳細は「関連系図」を参照 友米の孫である父・百助は、鴻池加島屋などの大坂商人相手に藩の借財を扱う職にありながら藩儒野本巌や帆足万里学び菅茶山伊藤東涯などの儒学通じた学者でもあった。百助の後輩には近江国水口藩藩儒中村栗園がおり、深い親交があった園は百助の死後諭吉面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番十数年に及んだが、身分格差激し中津藩では名をなすこともできずにこの世去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身封建制度には疑問感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。 なお、母兄姉一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福沢家に復する体格がよく、当時日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年1881年7月当時身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ)。 天保6年1836年)、父の死去により中村栗園見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟当時一般的な武家の子弟と異なり孝悌忠信神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札踏んで祟り起こらない事を確かめてみたり、神社悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子はりかえをこなすなど内職長けた子供であった5歳ごろから藩士服部五郎兵衛漢学一刀流の手解きを受け始める。初め読書嫌いであったが、145歳になってから近所自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということ勉学始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書読み漁り漢籍修める18歳になると、兄・三之助師事した野本真城白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻11度読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩凌いで漢学者前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問かたわら立身新流居合術習得した福沢学問的思想的源流に当たるのは亀井南冥荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山陽明学朱子学修めていたが亀井学の思想重きを置いていた。したがって諭吉学問基本には儒学根ざしており、その学統白石照山野本百厳・帆足万里経て祖父兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統原点にある。 安政元年1854年)、諭吉は兄の勧め19歳長崎遊学し蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市光永寺寄宿し、現在は石碑残されている。黒船来航により砲術需要高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語原典を読まなけれならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった長崎奉行配下役人砲術家山本次郎宅に居候しオランダ通詞通訳などを仕事とする長崎役人)の元へ通ってオランダ語学んだ山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆没収され砲術関係の書物保管されており、山本所蔵していた砲術関係の書籍貸したり写させたりして謝金もらっており、諭吉鉄砲設計図を引くことさえできるようになった山本家の客の中に薩摩藩松崎鼎甫がおり、アルファベット教えてもらう。その時分の諸藩西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島オランダ屋敷行ってみたい」とか、「大砲鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家仕事であり、その実はみな諭吉仕事であった中でも菊池富太郎は黒船乗船することを許され人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多く知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教え受けたり、縁を頼り勉学続けた

※この「出生から中津帰藩、長崎遊学」の解説は、「福澤諭吉」の解説の一部です。
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