出生からナポレオン戦争終結まで
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「ミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフ」の記事における「出生からナポレオン戦争終結まで」の解説
セミョーン・ヴォロンツォフ伯爵の息子、帝国宰相アレクサンドル・ロマーノヴィチ・ヴォロンツォフ伯爵の甥として、1782年5月30日にサンクトペテルブルクで生まれた。幼年期は父が駐在大使を務めるロンドンで過ごした。1803年から1804年にかけてパヴレ・ツィツィシュヴィリ(英語版)とヴァシリ・グリアコヴィ(ロシア語版)の部下としてカフカースに駐留、1804年1月にはグリアコヴィのジャリ戦役(ロシア語版)で間一髪で死を逃れた(グリアコヴィ自身は戦死)。1805年から1807年までナポレオン戦争に参戦、プウトゥスクの戦い(英語版)とフリートラントの戦いを戦った。1809年から1811年まで露土戦争を戦った後、1812年ロシア戦役でピョートル・バグラチオンの部下として戦い、ボロジノの戦いで重傷を負ったが翌1813年に回復した。1814年にはクラオンヌの戦い(英語版)でナポレオン・ボナパルトと戦い、1815年から1818年までフランス占領軍の指揮官を務めた。
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