出生からオーストラリア移住まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 08:38 UTC 版)
「ジョージ・フレッチャー・モー」の記事における「出生からオーストラリア移住まで」の解説
モーはアイルランドのティロン州DonemanaのBond's Glenで生まれた。ロンドンデリーのフォイル・カレッジ、次いでダブリンの トリニティ・カレッジで学び、1820年に法律学を修めて卒業。その後6年間キングスイン(King's Inns、アイルランド法曹界の中央本部)で働いた。しかしそこではあまり出世を望めないと考え、彼は植民地で司法のキャリアを積む決心をした。そこでモーは、オーストラリアに最近できたスワン川植民地( Swan River Colonyに目をつけて、何か公務は無いか植民地省Colonial Officeに問い合わせた。しかし、そのような人事は西オーストラリア州政府のジェームス・スターリン (James Stirling) 卿が管轄していたため、植民地省は回答出来なかった。ただし、もし移住するならば紹介状を用意するとだけモーに約束した。 移住を決断したモーは、クレオパトラ号でダブリンを出航し1830年10月30日にスワン川植民地に到着した。そこでモーは、植民地の行政を管掌しているウィリアム・マッキー (William Mackie) が彼のために、小治安裁判法廷と12月上旬の四季裁判法廷の裁判長のポストを用意していたことを知った。
※この「出生からオーストラリア移住まで」の解説は、「ジョージ・フレッチャー・モー」の解説の一部です。
「出生からオーストラリア移住まで」を含む「ジョージ・フレッチャー・モー」の記事については、「ジョージ・フレッチャー・モー」の概要を参照ください。
- 出生からオーストラリア移住までのページへのリンク