出生からWink結成直前まで(1969年 - 1988年)
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「鈴木早智子」の記事における「出生からWink結成直前まで(1969年 - 1988年)」の解説
1969年2月22日23時8分、広告関係の仕事をする父 と、専業主婦の母 のもとに生まれる。出生地を愛知県名古屋市とする文献もあるが、鈴木の自著では、出生地は東京都目黒区で、幼稚園の年長組に上がる頃に埼玉県草加市へ転居、1989年初頭におけるWinkの「愛が止まらない」のヒット後に、東京で単身生活を始めたとする。3兄弟の長女(4歳下に弟、8歳下に妹)。小学2年生の時から歌手に憧れていた。 中学生の時にアニメソングのオーディションに合格するも辞退。 1984年、東京都内の高校へ進学して間もなく歌手を目指して休学し、同年内に一時的に都内港区の青山に所在する芸能事務所に所属。 1985年頃、高校を退学し、喫茶店や、建設会社の事務などのアルバイトの傍ら、都内港区の乃木坂にあった笠井幹男のボーカル・スクールで、レッスンを受けるようになる。 1986年7月、草加市の西隣である埼玉県川口市の土手において、数千人の聴衆を前にし、アマチュアバンドであるフォーエバーのボーカルとして、オリジナル曲「おじちゃんヨイショ」を歌唱。 同年8月17日に新宿アルタ内のスタジオアルタで本選が開催された 第1回「ロッテ CMアイドルはキミだ!」コンテストに、最終ノミネート者20名の1人として出場するも、グランプリの座を獲たのは橘理佐(のちの立花理佐)であった。 この年の11月2日、成城大学の学園祭において開催された、青年誌『UP TO BOY』(ワニブックス)の「ミス UP FESTIVAL in SEIJO UNIV.」に、東 智子の名を以ってエントリーし、ミス・アップ第7代グランプリを受賞。 1987年1月23日発売の『UP TO BOY』同年3月号のグラビアに、名を本名の鈴木早智子に改めて登場し、3月23日発売の5月号で、表紙と巻頭グラビアを飾る。この年、同誌の鈴木のグラビアを目にしたアップライトミュージック社長・森裕平が、芸能事務所に属していなかった鈴木を、設立したばかりの自社に所属させた。しかしながら、同社における鈴木の主な仕事は当初、電話番やスケジュール管理などの雑務であり、翌1988年1月に端役としてテレビドラマに出演するなどした以外、Winkを結成するまで目立った芸能活動は無かった。
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