出生からインド渡航までとは? わかりやすく解説

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出生からインド渡航まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 00:26 UTC 版)

牧幹夫」の記事における「出生からインド渡航まで」の解説

宇都宮出身本名北沢三郎といい、1909年弁護士三男として生まれた生後すぐに母が死去し、父が顧問をしていた宇都宮四條町教会E・Cフライ牧師夫妻引き取られた。フライ牧師夫妻は、1904年宇都宮赴任した後に女学校幼稚園設立するなど、この地の教育功績があった。子供のいなかったフライ牧師夫妻は、引き取った幼児アメリカ風の生活様式の中で養育し日常会話もすべて英語であった。そのため、小学校進んだときに初め日本語習得することとなった。牧は自身で「ジョン・マキ・アンダーソン」と名乗り後年インドで暮らすことになった時期にもこの名を名乗っていたと伝わる。 後に妻となる橘 秋子との出会いは、旧制栃木県立石中学校現在の栃木県立石橋高等学校在学時の1927年のことだった。1907年生まれは牧と同じく宇都宮出身で、本名福田 サクといった。栃木師範学校現在の宇都宮大学教育学部第1部卒業後に教師となり、同県内の国分寺町国分尋常小学校現在の下野市立国寺西小学校)に勤務していた。学校では音楽体育担当しダンス教えていた。当時洋舞」といわれていたダンス自体目新しく運動会のときにユニフォーム型紙もなしに次々と裁断していく若い女教師は、地元人々驚きをもって見られていた。師範学校時代当時義務付けられていた寄宿舎入り断って自宅からの通学許可をもらい、袴姿に日傘といういでたち学校通っていた。師範学校女学生から教師となっては目立つ存在であり、彼女に憧れを抱く青年大勢いた。牧もそのうち1人であり、18歳のときに通学列車の中で2歳年上橘を見初め19歳になって彼女と初め会話交わした1928年3月養母死去した翌年の春、牧は当時四谷にあった東京高等音楽学院現在の国立音楽大学)に進学して声楽学んだエリアナ・パヴロワ踊り見たことで、バレエの道を志望し始めた。牧が東京高等音楽学院進学してから2か月ほど後に、も約3年勤めた教職辞し東京出て成城学園小林宗作リトミックを学ぶことになった。このことについて後に実娘の牧阿佐美は、「示し合わせて行動としか思えません」と自著触れている。1930年4月パヴロワ内弟子となってバレエの道に進み同年に牧もパヴロワ門下生となったその時期に発表会で踊るときには、牧がピアノ伴奏引き受けていたという。 パヴロワのもとから独立して1932年高円寺転居し有楽町蚕糸会館にあったパヴロワ稽古場に通うようになった。牧も一緒に蚕糸会館通っていて、高円寺2人新生活の場となった結婚について、牧の養父フライ牧師賛成していたが、家族と牧の実兄姉が大反対していた。その理由は、2人宗教の違いクリスチャン仏教徒にあった。そのため、正式の結婚ではなかったと後に阿佐美語っている。1933年1月と牧は中央線西荻窪駅に近い杉並区宮前移り住み4月9日に「橘秋子舞踊研究所」を開いた研究所の建築資金は、フライ牧師援助よるものであった1933年5月12日2人の間に娘の阿佐美誕生した。ただし、出生届提出翌年まで遅れたため、業を煮やしたの母が親戚の家(の母のいとこにあたる)の子供として届を提出したこのため戸籍上では「福田サク養女」と記載されていることを阿佐美自身記述している。さらには、小石川八千代町現在の文京区白山)に住んでいた女性生後18日から阿佐美養育委ねていた。阿佐美3歳になった頃、一時期宮前引き取ったが、8か月ほどでまた小石川養母のもとに戻された。阿佐美もう少し成長すると、養母小石川から宮前まで幼い阿佐美伴って毎週土日通っていた。橘秋子舞踊研究所発表会を開く時期になると、その練習のためにほぼ毎日のように通わなければならなかった。 阿佐美幼少時実母橘をママちゃん」、実父の牧を「マコちゃん」と呼んでいた。それはが牧のことを「牧」と呼ぶのを聞いて聞き覚えたものであった阿佐美幼少時記憶にある牧は、色浅黒く鼻が高い容貌インド人のようであった身振り雰囲気については、ほとんどアメリカ人のようであったという。読む本も洋書ばかりで、英語の他にフランス語サンスクリット語などの心得もあり、語学的才能もあった。師範学校卒業していたはしばしば「ダンスきってのインテリ」と評されていたが、当時さまざまな批評では牧の方それ以上理知的見えたといい、その中には理知的すぎる」という批評であった。 牧が1938年インド渡航するまでの間に、研究所発表会は4回あった。最初発表会1934年5月31日日本青年館開催され、『チゴイネルワイゼン』、『原始人感情』、『水仙』、『火祭の踊』、『路傍』、『信号』他が踊られ、好評であった。この発表会と牧は『水仙』、『信号』といった作品をともに踊った。『信号』については、批評家永田龍雄時事新報寄稿した舞踊評で「幹夫秋子デュエット物では当夜最も価値ある作品」と高く評価した永田は牧の『火祭の踊』を「光った舞踊だ」と称賛し発表会全体についても「これだけ実のある初舞台をやった人はあまりなかろう」と記述した時局日米関係悪化などに伴い緊迫の度を増していた。牧の養父フライ牧師1934年日本離れてアメリカ合衆国帰国した。牧は、インド詩人で「詩聖」と称えられタゴール思想惹かれインド行き希望するようになった当時の牧の心情について阿佐美は「インドへの憧れだけでインド向かったとは思えません」と記述し養父母のもとでアメリカ人として育った牧が、養父母の国と戦争することで日本住みづらくなった時期に、タゴールの持つ思想によって精神的に支えられたのではないか推測している。 1937年10月4歳阿佐美初舞台踏んだ翌年牧は、インドへの渡航決意しもその決意賛同した1938年4月18日に、牧幹夫渡印告別舞踊会が日本青年館開催された。4月29日、牧は単身横浜からインド向けて出発した阿佐美自著中で比較文化学者我妻和男による評伝タゴール』の一節引用してタゴール創設した学園(後に国立ヴィシュヴァ・バーラティ大学となる)の舞踊学科入学した牧がインド舞踊上達しタゴール作の舞踊劇出演するようになったということ記述している。1年後に牧の後を追ってインドに行く予定であったが、戦況の悪化がそれを許さず結局再会はかなわなかった。 牧がインド渡航した後、残され虚脱状態陥った舞台打ち込み6月9日日本青年館で「橘秋子産業舞踊発表会」を開催し秋に研究所発表会行った発表会終えた後、は牧の姉夫婦誘いに応じて宮前研究所売却し阿佐美弟子たち連れて名古屋移転した。しかし名古屋になじめなかったため、1年たらずで東京戻り東中野駅前に新たな研究所開設した阿佐美から見て、牧と愛し合っていたが、性格は「ある意味対照的」だった。社交的というほどではないが情熱家他人鼓舞するのに優れ才能ある人々接して語り合うのが大好きであった一方の牧は、学究肌1人で過ごすのが平気な性格であり、当時舞踊雑誌多く寄稿したり、日本国外舞踊論の翻訳を手がけたりする理論家でもあった。阿佐美は後に「パパはあんたがちっちゃいとき置いて行っちゃったんだから、捨てられたのと同じなんだよ。パパは悪い人だ」と言われたときに、が必ず反論して「パパ芸術のために、その勉強のために行っているんだ」と言って牧のことを擁護し続けたことを回想している。

※この「出生からインド渡航まで」の解説は、「牧幹夫」の解説の一部です。
「出生からインド渡航まで」を含む「牧幹夫」の記事については、「牧幹夫」の概要を参照ください。

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