出身と上京まで
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1867年2月23日(慶応3年1月19日)水戸藩士にして水戸支藩石岡藩家老菊池慎七郎の二男として水戸天王町に生まれる。 父慎七郎は、維新後の1869年(明治2年)には石岡藩権大参事。 兄は直一郎。『茨城人物評伝』の「菊池直一郎君」の項に、「渋沢栄一の自伝」に直一郎の先人菊池慎七郎と村田正孝が徳川昭武の洋行に随行、また両人により斬殺されかけたとあるが、『渋沢栄一自叙伝』『徳川昭武帯欧記録・第一』では、随行の菊池姓の人物は平八郎である。両人共に水戸藩出身で、茨城県での酪農畜産の発展に貢献した点で、直一郎の先人であるが、平八郎と慎七郎の混同のため、平八郎と直一郎の血縁関係は不明である。『茨城人物評伝』は直一郎を世事に関わらない人としている。 弟は忠三郎。 謙二郎についての詳細な資料として森田美比『菊池謙二郎』がある。また、出身と経歴については、謙二郎が学び、後に校長を務めた旧制水戸中学校の後を継ぐ茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校のホームページに詳しい。 『人事興信録第4版大正4(1915)年1月』では、平民慎七郎、茨城縣會議員、縣會議長、10年後の『同7版』では、士族慎七郎、第二高等學校長水戸中學校長等を歴任し後教育界視察の為欧米諸国を漫遊とあり、他または互いに相違する記述がある。いずれも、子については次の旨記されている。呉一 明36、8生、揚二 明39、2生、かをる 明43、8生 1869年(明治2年)弟忠三郎誕生。 栗田寛が1880年(明治13年)に大坂町の自宅に開いた家塾、輔仁学舎で学ぶ。 1882年(明治15年)茨城中学校(水戸一高の前身、1883年茨城第一中学校に改称)入学。聞かん気で、同級生中最年少ながら、ただ一人体操で百点を得る。演説の稽古をする一方、演説の傍聴禁止の校則に触れる。文芸雑誌によく投稿する。 1884年(明治17年)退学、上京、共立学校へ転学。
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