出身から船政大臣まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 03:22 UTC 版)
道光27年(1847年)に進士に及第し翰林院編修に任命、咸豊4年(1854年)には御史へ、咸豊6年(1856年)には江西省へ派遣され九江知府に任じられ、曽国藩と共に太平天国の平定作戦に従事している。同治元年(1861年)に江西巡撫に就任し、同治3年(1864年)に太平天国の天京を陥落させた際には、幼天王洪天貴福・干王洪仁玕・昭王黄文英を江西に追い捕虜とし、この軍功により軽車都尉に昇進した(天京攻防戦)。 同治5年(1866年)、左宗棠が福建省に馬尾船廠を建設した。だが建設の途中で陝甘総督として異動することになった左宗棠は、沈葆楨を後継者として推薦した。そのため、翌同治6年(1867年)に船政総理大臣に任命され、中国の海事事業の近代化と洋務運動に対し大きな貢献を行った。沈葆楨は、馬尾船廠で近代的な軍艦を建造して福建水師(一部は北洋水師・南洋水師にも提供された)に配備しただけでなく、人材育成にも尽力し、中国最初の海軍学校である福建船政学堂を建学、後に北洋水師や洋務運動の中核を担う人材を数多く輩出している。
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