洪天貴福とは? わかりやすく解説

洪天貴福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/20 03:59 UTC 版)

幼天王 洪天貴福
太平天国
第2代天王
王朝 太平天国
在位期間 1864年6月 - 10月
姓・諱 洪天貴→洪天貴福
生年 道光29年10月9日
1849年11月23日
没年 同治3年10月20日
1864年11月18日
洪秀全
頼蓮英
后妃 黄氏
黄氏
侯氏
張氏

洪 天貴福(こう てんきふく、拼音: Hóng Tiānguìfú)は、太平天国の第2代天王。初代天王洪秀全の長男。初名を天貴としていたが、後にの字が加えられた。

捕えられた洪天貴福

生涯

道光30年(1851年)に洪秀全太平天国を建国すると幼主に立てられ、天京(南京)の天王宮に移住。外出は許されず、太平天国関連書籍しか読めないという「帝王学」を受けて育つ。同治3年5月3日1864年6月6日)、父の死後に天京にて幼天王として即位した。

7月、天京攻防戦で天京が陥落すると江蘇省東壩に逃れ、安徽省広徳を経て浙江省湖州に移る。8月末江西省広東省福建省一帯で活動していた李世賢のもとへ向かうが、10月9日清軍の待ち伏せに遭い敗れ、さらに逃亡を図った。この時期、天貴福が農家に助けを求める様が目撃されているが、ボロ服を着て痩せこけ、与えられた粗末な粥を感激しながら食べていたという。

だが、10月25日江西省石城県荒山で捕らえられ、投獄される。天貴福は年若いゆえか事態を正確に把握できておらず、自分は騙されただけで太平天国が悪いという言い訳を詩文にし、清朝へ貢献したいと訴えて生存を図った。この行為は役人たちから芝居としか見做されず、一切の減刑は受けられなかった。11月18日に江西巡撫沈葆楨によって南昌凌遅刑によって処刑された。満15歳を目前にした刑死であり、凌遅刑に処せられた最若年記録とされる。

天貴福は服を破られて裸で十字架に磔られ、およそ6時間1,400回ほど切られた後、絶命した。少年が大泣きしながら切り刻まれるという惨劇にも関わらず、乱に迷惑を被った江西の人々は全く同情せず、笑顔で歓声を上げながら見物していたと伝わる。

先代
洪秀全
太平天国の第2代天王
1864年
次代
滅亡

洪天貴福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 02:57 UTC 版)

凌遅刑」の記事における「洪天貴福」の解説

太平天国の「幼天王」。洪秀全長男1864年南昌処刑された。

※この「洪天貴福」の解説は、「凌遅刑」の解説の一部です。
「洪天貴福」を含む「凌遅刑」の記事については、「凌遅刑」の概要を参照ください。

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