太平天国の落日とは? わかりやすく解説

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太平天国の落日

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:09 UTC 版)

太平天国の乱」の記事における「太平天国の落日」の解説

1863年以降太平天国太倉州・無錫蘇州杭州次々失い天京孤立した李世賢諸王は既に洪秀全見捨てていたが、李秀成だけは清朝囲み破り天京舞い戻った。そして洪秀全天京破棄することを勧めたが、洪秀全頑として受け入れず逆に李秀成防衛にあたるよう命じた孤立した天京食糧事情がすでに逼迫しており、雑草を「甜露」と呼んで食べていたほどであった首都ありながら防衛に当たるべき兵士暴徒化し、誰しもその終焉が近いことを悟らずにいられなかった。 そしてついに1864年6月1日洪秀全栄養失調により病死した。李秀成によれば直接の原因は「甜露」を食べて体を壊したにもかかわらず服用しなかったためだという。自殺説もあったが、それは湘軍功績過大評価させるための意図的なデマだった。洪秀全死の直前に「私は天国上り天父天兄から兵を借りて天京を守る」と述べ、これが洪秀全最後の詔となった7月19日天京攻防戦湘軍攻撃により天京陥落し太平天国の乱終結した城外からトンネル掘り進め兵士突入させた。この戦術太平天国得意技であった城内には既に厭戦ムード満ちていたが、蘇州失陥の際、太平天国兵士8,000人が皆殺しにあったことを知っていたため、最後まで投降できず戦い続けた。また占領後多く老人子供もいたが20万人虐殺されたという。洪秀全の墓も暴かれ焼かれた。天京攻防戦悲惨極めたことは想像余りある。忠王李秀成洪秀全の子洪天貴福伴って天京脱出したが、程なくして捕らえられ処刑された。李秀成は刑が執行されるまでに詳細な供述書残している。 生き残り諸王らは捻軍合流するなどして各地更なる抵抗活動おこない猛将センゲリンチン戦死至らしめるなど清軍を手こずらせたが1868年には捻軍壊滅1870年代にはほぼすべてが鎮圧された。

※この「太平天国の落日」の解説は、「太平天国の乱」の解説の一部です。
「太平天国の落日」を含む「太平天国の乱」の記事については、「太平天国の乱」の概要を参照ください。

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