太平天国討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:24 UTC 版)
士大夫の家系で、曾祖父・祖父と父は地元の教師だった。左宗棠は道光12年(1832年)に科挙で挙人の資格を得たが、進士には合格出来ず3回も落第したため、官僚への道を諦めて湖南で家塾の師となり、歴史や地理の研究に没頭していた。友人の胡林翼は左宗棠の才能を高く買い、度々要人に左宗棠を推薦、道光29年(1849年)に湖南を訪れた林則徐と左宗棠が会談することもあったが、自らを清末の諸葛亮(孔明)と称していたため、大抵の人間からは変人扱いされていた。 道光30年(1850年)に太平天国の乱が勃発すると、胡林翼の推挙で湖南巡撫張亮基・駱秉章の幕府に入り、楚勇を組織して太平天国軍の攻撃から長沙を守った。その後も諸省を転戦して軍功を立て、曽国藩の推薦で咸豊11年(1861年)に浙江巡撫となると、浙江へ移り太平天国との戦闘を継続、イギリスやフランスと協力して金華・紹興などを奪回、同治2年(1863年)に閩浙総督に昇進した。同治3年(1864年)には杭州を奪回し浙江を平定、徐宗幹・瑞麟と協力して東南部の太平天国の残党の掃討にあたり、李世賢・汪海洋ら残党勢力を楊昌濬・劉典・王徳榜・康国器・高連升・鮑超・黄少春・蔣益澧・林文察ら湘軍を派遣して任務を果たした。太平天国鎮圧後は曽国藩や李鴻章らと共に軍備強化のため洋務運動を推進し、福州船政局などを創設した。
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