太平天国軍膨張の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:09 UTC 版)
「太平天国の乱」の記事における「太平天国軍膨張の理由」の解説
桂林を攻めた際には激戦故に5,000人までに減少したにもかかわらず、その後南京を陥落させた時には太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。こうした急激な膨張は以下の理由による。 まず背景として清朝の増税があった。さらに戦争における戦費調達や敗戦後の損害賠償を支払うために、清朝は法で定める何倍もの税を特に東南沿海部の地方から徴収した。さらに「銀貴銭賤」現象も実質増税を民衆に強いた。当時土地税は銀で納入することとなっていた(地丁銀制)ため、人々は銭を銀に両替して納めていた。しかし、イギリスから輸入するアヘンを始めとする諸外国との貿易により銀が国外へと流出すると銀と銭との交換レートが変動し、それまで銀一両=銭1,000文だったのが銭2,000文以上となった。このような税の過大な負担に耐えかねた庶民が大挙して太平天国軍へ参加したことで、急激に組織は膨張した。 そしてこれもアヘン戦争の余波であるが、戦後多くの匪賊が横行し、これらを太平天国が吸収したことも膨張の要因である。 南京条約によって交易が広東一港に限定されなくなった結果、国内の物流ルートが激変し、それまで貨物輸送に関わっていた人々の多くが失業し、匪賊化した。また白蓮教徒の乱以後、たびたび組織された「郷勇」と呼ばれる臨時募集兵がアヘン戦争後に解散となり、これも匪賊化していた。
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