上京と各地遊歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:01 UTC 版)
しかし19,20歳の頃、今度は京に上り、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、しばしば旅に出つつも、京都を中心に活動する。20代の東洋は、しばしば中国の古画を模写しており、古典を真摯に学ぼうとする東洋の姿勢が伺える。20代の終わりから30代初めにかけて、東洋は長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだと推測され、京都に戻る途中の天明5年(1785年)7月、立ち寄った厳島神社に奉納した「虎図絵馬」(現存)における細かい毛描きには、長崎派風の描法が見える。 こうして各地を遊歴して帰洛した頃には、東洋は狩野派を離れていった。当時の京都画壇は円山応挙の活躍が目覚ましく、東洋もその影響を受けていく。寛政7年(1795年)東洋41歳の作「花鳥図」(個人蔵)における枝の書き方には、応挙が創始した付立技法が顕著に現れている。また、この作品は年期のある作品では初めて「法眼」落款を伴っており、前年の6月4日付の記事に「法眼東洋」とあることから、この少し前に東洋は法眼位を得たと推測できる。この叙任には、東洋と親交のあった妙法院真仁法親王の助力があったと考えられる。真仁法親王の周りには、応挙や呉春といった絵師だけでなく、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らが出入りしており、東洋もその中に混じりしばしば合作もしている。
※この「上京と各地遊歴」の解説は、「東東洋」の解説の一部です。
「上京と各地遊歴」を含む「東東洋」の記事については、「東東洋」の概要を参照ください。
- 上京と各地遊歴のページへのリンク