警視庁奉職時代
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明治21年(1888年)、警視庁撃剣世話掛となっていた下江の招きで警視庁に出仕し、富岡門前署撃剣世話掛となる。同年10月、回国修行を終えた内藤高治も警視庁に出仕し、下江の斡旋で門奈と同じ富岡門前署に配属された。その後、下江、内藤とともに下谷署に異動する。門奈は「下江の技を最も受け継いだ」と評されるようになる。 明治25年(1892年)、神田小川町署の撃剣世話掛副主任となり、初めて下江と別の署に異動となった。当時の神田小川町署の撃剣世話掛主任は鏡新明智流士学館四天王の一人であった兼松直廉であった。 明治26年(1893年)、千葉県へ武者修行の旅に出て、香取神道流17世・飯篠盛貞の道場を訪ね手合わせを求める。同流は他流試合を禁じているため断られたが、同地に北辰一刀流の道場を開いている豪農宅を紹介され、その豪農宅で100人相手に9時間連続の立ち切り稽古を行った。 同年、警視庁の各署に試合を挑んだ本間三郎(本間念流)に、内藤高治、得能関四郎(直心影流)、柴田衛守(鞍馬流)ら世話掛が次々と敗れ、門奈も敗れたが、再度の試合で勝った。この門奈の勝ちが警視庁側の唯一の勝ちとなった。さらに同年、皇宮警察の猿田東之助(積川一刀流)と対戦し勝利する。 明治27年(1894年)、日清戦争の混乱からの居留民保護のため、警視庁の撃剣世話掛たちが朝鮮半島に派遣された。門奈は平壌の戦いで、立見尚文が率いる歩兵第10旅団に属し、ある状況で清国兵28人を斬った。 明治31年(1898年)、下江が愛知県警察部に転勤。 明治32年(1899年)、内藤が警視庁を退職し京都の大日本武徳会本部教授に就任。同じころ門奈も神奈川県警察部に転じる。横浜に道場・常陽館を開き、大日本武徳会神奈川支部の設立に尽力。同年、大日本武徳会から精錬証を授与される。 明治37年(1904年)、妻・浪子が死去する。二人の間に子供はおらず、門奈は独身となった。
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