真貝忠篤とは? わかりやすく解説

真貝忠篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/15 01:38 UTC 版)

真貝 忠篤(しんがい ただあつ、1842年3月1日天保13年1月20日[1]〉 - 1920年大正9年〉2月9日[1])は、大垣藩武士窪田派田宮流剣客大日本武徳会剣道範士

経歴

少年期

美濃大垣藩士真貝吉蔵の7男として江戸藩邸に生まれる。12歳で窪田派田宮流の島村勇雄に入門。17歳で両親を失い、として働きながら剣術を修行する。やがて師を凌ぐ腕前となり、師の名から一字貰い名を「寅雄」と改めた。

維新前後

戊辰戦争では大垣藩に従って各地を転戦し、のちに尾張藩帰順正気隊隊士となる。このとき悪所で梅毒に感染し鼻が欠けた。戦後、尾張藩校・明倫堂の剣術師範となる。廃藩後は撃剣興行で食いつないだ。

明治期

明治15、6年ごろ警視庁撃剣世話掛に就任する。その後宮内省皇宮警察学習院慶應義塾の剣道師範を務める。明治41年(1908年)、大日本武徳会から範士号を授与され、のち大日本帝国剣道形制定の委員を務めた。

根岸信五郎得能関四郎と並び「東都剣道界の三元老」と呼ばれ、明治後期の剣道家の間で大御所的存在であった。また、小手斬りが得意であったので「小手斬り真貝」、鼻が欠けていたので「鼻欠け真貝」という異名で呼ばれた。

晩年

小西酒造の道場・修武館に招聘され、富山円直心影流)、美田村顕教天道流)らとともに修武館奥之形を制定する。

小学校4年生のとき修武館に入門した松本敏夫(剣道範士九段)は、晩年の真貝について、「大先生だというので、きっと偉丈夫のかただと想像していたら、小柄なご老人が改札口からあらわれ、そのかたが真貝先生だという。しかも鼻がお顔についていない。子ども心にびっくりしたのをおぼえているよ」と述懐している[2]

大正9年(1920年)、皇宮警察の道場・済寧館へ出勤の途中、脳溢血で倒れ、四谷の自宅に運ばれ死去した。墓所は青山霊園

脚注

  1. ^ a b 『剣道事典 技術と文化の歴史』354頁。
  2. ^ 聞き書き剣道史 伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話 -6-

参考文献

  • 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』、光文社
  • 中村民雄『剣道事典 技術と文化の歴史』島津書房、1994年。

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「真貝忠篤」の関連用語

真貝忠篤のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



真貝忠篤のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの真貝忠篤 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS