窪田派田宮流
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天保12年(1841年)、旗本の窪田清音が田宮流居合を将軍・徳川家慶に上覧した。安政3年(1856年)に幕府が講武所を開設すると、窪田清音は男谷精一郎と共に頭取に就任、門下生の戸田忠道が剣術師範役、戸田忠昭が剣術教授方に就いている。幕府講武所頭取として当時の武術界大御所であった窪田清音は門人が兵学3000人、武術600人、「剣法略記」など剣術、兵学の専門書を130冊著したことから、田宮流は全国に広まった。この系統は窪田派田宮流と呼ばれ、田都味嘉門、加藤田平八郎、真貝忠篤を輩出している。大津事件の大審院長として有名な児島惟謙、剣豪商人と称され、大阪商工会議所会頭を務めた土居通夫は、宇和島藩士時代に、田都味嘉門の門下で窪田派田宮流を修業、免許皆伝を認められている。 真貝忠篤は、美濃大垣藩士として戊辰戦争を生き残り、維新後は警視庁撃剣世話掛、宮内省皇宮警察師範を勤め、根岸信五郎(神道無念流)、得能関四郎(直心影流)とともに「東都剣術三元老」と呼ばれ明治後期の剣術家の間で大御所的存在であった。
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