箕輪長野氏家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:32 UTC 版)
『撃剣叢談』によると、1555年(天文24年)北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したという。その後、長野業正とその子長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらったという。長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄(諱は晴信)の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にある。
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