実用型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/24 17:41 UTC 版)
後期の海龍は戦況の悪化も昂じて艇首に爆薬を充填し、体当り攻撃を前提とした特攻兵器として建造されることとなった。横須賀海軍工廠では1945年9月までに700隻を製造する目標を立て、量産を行っている。 海龍は速度が遅いため、本土決戦では敵輸送船団への攻撃作戦を行うことになっていた。 海中飛行機の発案は、技術的には興味深いが、当時の技術で、少数の乗員が乗艦する潜水艇が、三次元空間の運動性、安定性を両立させることは困難であった。さらに海龍自体にも技術的な問題があった。訓練を開始したばかりの艇付はジャイロコンパスでの艇の進路保持が精一杯であり、艇長は潜望鏡で周囲の視察にかかりきりになりがちだった。海龍は水上航走時、速度が出るにしたがって徐々に俯角を取って水中に潜ろうとする傾向があり、これに気がつかない場合、吸排気筒から海水が浸入した。慌てて艇長がエンジンを切らずに吸排気筒を閉めた場合、今度はエンジンが艇内の空気を全て吸入して真空状態となった。基礎教程後の単独操縦ではこれによる窒息事故が連続し、殉職者が続けて出た。 1945年5月には伊豆半島の下田に第十三突撃隊の基地が設けられ、西海岸の江の浦にも第十五突撃隊の基地が設けられた。一艇隊は13隻の海龍で構成された。第十三突撃隊では、8月初旬、神子元島の灯台を砲撃する敵潜水艦に対して1隻が出撃した。途上、海龍は水上航行中に敵艦載機の銃撃を受け、急速潜航し難を逃れた。島の付近に到着するも敵の艦影はなく帰投した。この後に第十三突撃隊の出撃機会はなく、数日後に終戦を迎えている。 大戦末期の資材の不足、品質の低下の中にあって、実用化された海龍の性能は計画値よりも大幅に低いものだったと推測される。人間魚雷回天よりも速力が大幅に遅い海龍では、たとえ低速の輸送船相手であっても、護衛艦艇に阻止され攻撃は難しかったと考えられる。また、艇首の爆薬装備部分は本来、600Lの容量がある前部燃料タンクであり、爆装した海龍の搭載燃料は、480Lの後部燃料タンクだけとなる。この状態の海龍の行動半径は100km以下となり、まともな作戦行動は行えない。このあたりに終戦直前の混乱が伺える。 戦後の1945年9月に横須賀へ進駐してきたアメリカ軍は、海龍を多数鹵獲(ろかく)し、秘匿基地や生産工場も発見し写真を残している。これらの写真は、アメリカ海軍歴史センター(Naval Historical Center)が保管、公開しているが、魚雷を装備した海龍はおろか、外装魚雷担架、搭載が計画されていた魚雷も全く写っていない。1945年には、より高性能の特殊潜航艇である蛟龍への魚雷装備もままならない状況だったことから、海龍の魚雷搭載は放棄され、事実上、体当たり自爆を目的とした人間魚雷として量産されていたようである。大和ミュージアムが魚雷2本を搭載した計画当初の潜水艇海龍を展示しているが、このような魚雷装備の海龍は量産、配備されたことはなかったと考えられる。
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