徳川吉宗の幕政とは? わかりやすく解説

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徳川吉宗の幕政(享保の改革)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:30 UTC 版)

江戸時代」の記事における「徳川吉宗の幕政(享保の改革)」の解説

詳細は「享保の改革」を参照 8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家出身であり、それまで幕政主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に農本主義立脚した政治改革行った享保の改革)。吉宗がもっと心を砕いたのは米価安定であった貨幣経済進展にともない諸物価の基準であった米価下落続け米価安の諸色高)、それを俸禄単位としていた旗本御家人困窮顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令消費抑える一方新田開発による米の増産定免法採用による収入安定上米令堂島米会所公認などを行った。「米将軍」と称され所以である。それ以外にも、財政支出抑えながら有為な人材登用する足高の制漢訳洋書禁輸緩和甘藷栽培奨励目安箱設置などの改革行った幕府財政一部健全化し、1744年延享元年)には江戸時代通じて最高の税収となったが、年貢税率固定化貢租重課厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓町民からの不満を招き折から享保の大飢饉享保6年信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、百姓一揆打ちこわし頻発した。それらに対し享保6年1721年6月、「村民須知」、享保19年1734年8月代官への御触書などによる法令取り締まった宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ実際はもっと多い。平均して1年に約2回)。このように土地資本基盤とする反面土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策打ち出され不況慢性化した。 なお、「朱子学憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判行った荻生徂徠1726年享保11年)ごろに吉宗提出した政治改革論『政談』には、徂徠政治思想具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治宗教道徳分離推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論本格化する。一方1724年享保9年)には大坂豪商朱子学中心に儒学を学ぶ懐徳堂設立して、のちに幕府官許学問所として明治初年まで続いている。1730年享保15年)、石田梅岩日本独自道徳哲学心学石門心学)を唱えた享保年間は、このように学問・思想の上でも新しい展開の見られ時代でもあった。 その一方で、超長期政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し学問・文化芸術経済などさまざまな分野活動活発化し、現代にまで続く伝統確立している。

※この「徳川吉宗の幕政(享保の改革)」の解説は、「江戸時代」の解説の一部です。
「徳川吉宗の幕政(享保の改革)」を含む「江戸時代」の記事については、「江戸時代」の概要を参照ください。

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