朱子学批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:22 UTC 版)
山崎闇斎や貝原益軒は朱子学を学びながらもそれに疑問を呈するようになっていった。中江藤樹は陽明学に転じ、道学を教え近江聖人と呼ばれた。弟子の熊沢蕃山は農本思想を説いた。山鹿素行は聖学を創始し、孔子本来の教えに立ち戻ることを主張した。伊藤仁斎は道徳とは性即理(本然の性)によるのではないとし、日常的生活実践としての忠恕を重視した。荻生徂徠は礼楽刑政の道とは聖人が制作したものであり、その制度を現在の政治に実現することを説いた。徂徠の弟子には文人の服部南郭や、『経済録』の太宰春台がおり、後世には本居宣長や、海保青陵らの経世家に影響を与えていった。懐徳堂では中井竹山らが朱子学を教えたが、中井履軒など朱子学に疑念を呈するものや、富永仲基や山片蟠桃など、儒学を始めとする宗教を否定する合理主義者が現れた。
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