朱子学との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 08:44 UTC 版)
徳川幕府は朱子学を支配原理として採用し、官学として、儒教思想を定着させた。しかし、もともと武士の争乱の末に政権を奪取した徳川幕府は「王道」に反する「覇道」にあたるから、朱子学による幕府の正統化の論理は、最初から矛盾をはらんでいた[要出典]。山鹿素行は、儒学のモデルであり、当時の憧れの対象であった中国明が滅び、清に支配されて、もはや規範ではなくなったため、日本こそが儒学の正統だとして、「日本こそ中国である」と論じた。また、儒教思想の日本への定着はすなわち、中華思想(華夷思想)の日本への定着を意味し、近代の皇国史観などに影響を与え、日本版中華思想ともいうべきものの下地となった。儒教では、湯武放伐を認めるかどうかが難題とされてきたが、徳川幕府は朱子学について孟子的理解に立ち、湯武放伐、易姓革命論を認めており、そうすると天皇を将軍が放伐してよいことになるため、山崎闇斎を始祖とする崎門学派が湯武放伐を否定して、体制思想としての朱子学を反体制思想へと転化させた。そして、従来は同じく中国思想であったものが日本化した攘夷論とむすびつき、幕府や幕藩体制を批判する先鋭的な政治思想へと展開していき、この思想が明治維新の原動力となった。また、「昭和維新」を標榜する昭和期の右翼や二・二六事件の反乱軍などにより「尊皇討奸」というスローガンが掲げられている。 なお幕末期における「尊王」の対義語として「佐幕」という言葉が使われることがあるが[要出典]、「佐幕」は「尊王」と矛盾するものではなく、「佐幕」の対義語はあくまで「倒幕」である[要出典]。なにより孝明天皇自身が討幕に強く反対していたこともあり、「尊王敬幕」というスタンスを打ち出した藩もあった[要出典]。
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