朱子学(宋学、道学)について
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「中華思想」の記事における「朱子学(宋学、道学)について」の解説
『宋』の時代に強調されだした『中華』は、宋王朝の歴史的背景と、そこから生まれた朱子学のの正統論(王朝の正統性の有無を問う論)に強い影響を受けている。契丹族の遼に従属して朝貢(1004年)し、女真族(満洲人)の金に都の開封を追われる(1126年)、宋の時代(南宋を含む)に生まれた朱子学は、宋代の形而上的思想を朱熹(1130-1200)が集大成したもので、客観的な論理性よりも主観的(感情的)な観念や大義名分が重視された思想とされる。 宋学の成立について司馬遼太郎は、著書である『この国のかたち』[要ページ番号]の中で、「宋は、儒教をもって国教としている。儒教とは、華(文明)であるにはどうすればいいかという宗教で、野蛮を悪としてきた。しかし、現実には文明(華)が野蛮(夷)に服従している。この矛盾が、宋学という形而上学を発展させたといい」と述べている。 また宋学の内容について司馬遼太郎は同書[要ページ番号]の中で、「朱子学の理屈っぽさと、名分を重んずるという風は、それが官学されることによって、弊害を生んだ」とし、さらに同氏は朱子学(宋学含む)について「理非を越えた宗教的な性格が強く、謂わば大義名分教と謂うべき物で、また正統か非正統かを喧しく言い、さらに異民族を呪った」、「朱子は、字句解釈をやかましくいう〝漢唐訓詁訓学〟という現実的な人文科学的方法よりも、むしろこうあるべきだという観念を先行させた」、「朱子学にあっては、歴史についても、史実の探求よりも大義名分という観念の尺度をあて、正邪を検断した」、さらに「朱子学は、危機環境のなかでおこった。このため過度に尊皇を説き、大義名分論という色眼鏡で歴史を観、また異民族(夷)を攘(うちはらう)という情熱に高い価値を置いた。要するに学問というより、正義体系(イデオロギー)であった」と記す。 以上のような点から、司馬遼太郎は朱子学について、「元が(中略)朱子学を官学とし、科挙試験も朱子学に拠らせた。このことは、二十世紀の清末まで続く。李氏朝鮮も同様で、そのことが、中国や朝鮮の停滞の遠因の1つになった」、「朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んずるという風は、それが官学化されることによって弊害をよんだ。とくに李氏朝鮮の末期などは、官僚は神学論争に終始し、朱子学の一価値観に固執して、見様によっては朱子学こそ亡国の因をつくったのではないかと思えるほど凄惨な政治事態が連続した」と評価する。 江戸時代に朱子学(儒学)を官学とした(日本人は仏教や神道から儒教への改宗や棄教はしなかった)日本への影響について、司馬遼太郎は同書の中で、江戸中期に多様な思想(荻生徂徠や伊藤仁斎など)が出て、朱子学の空論性を攻撃したため、朝鮮末期のような神学論争による凄惨な政治事態にならなかったとしながらも、一方で幕末期の(水戸藩を中心とした)『一君万民思想』には影響を与えていたと記している。 江戸中期、空論として攻撃にさらされていた朱子学は、寛政2年(1790年)、老中の松平定信が『寛政異学の禁』を出すことにより、ようやく江戸幕府の官学としての体裁が保たれるが、他藩を中心に朱子学を否定する風潮や多様な思想が残り、例えば幕末に生まれ明治にかけて活躍する福沢諭吉を生む。彼の一節「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」(『学問ノススメ』)は、『天命』によって天から選ばれた『天子』(皇帝や王)を頂点とした序列秩序の儒教を根底から否定している。 また福沢諭吉は脱亜論の中で、儒教体制のままにある中国と朝鮮(司馬遼太郎はこれに江戸幕府の儒学『朱子学』を加えた解釈をしている)を否定し、また儒教(中華)を『古風の専制』とし、「道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し」と痛烈に批判している。 さらに司馬遼太郎は同書[要ページ番号]の中で、明治時代に停滞していた朱子学は昭和時代に入って蘇ったとし(例えば日本でも正統性を巡って争いになった南北朝時代に活躍した楠木正成の英雄視とその学校教育によって)、京大文学部の創設に加わった中国学者の狩野直喜(かのうなおき)の発言「宋学が国を滅ぼした」の引用から、昭和期の軍閥における(朱子学的な)空論の害や、左翼勢力の空論好みが生まれたことに触れている。
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