朱子学の日本伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 01:04 UTC 版)
土田 (2014)の整理に従い、朱子学の日本伝来のうち初期の例を以下に示す。 年代的に早いものとしては、臨済宗の栄西、律宗の俊芿、臨済宗の円爾などが南宋に留学し多くの書物を持ち帰ったことから、朱子学の紹介者とされる。 南北朝時代には虎関師錬が禅宗の僧侶の中ではいち早く道学を論難した。その門下の中巌円月も道学に対する仏教の優位を述べる。また、義堂周信は『四書』の価値や新注・古注の相違に言及している。 室町時代の一条兼良の『尺素往来』には、朝廷の講義で道学の解釈が採られ始めたことが記録されている。 博士家では、清原宣賢が道学を重視した。 ほか、北畠親房の『神皇正統記』や、楠木正成の出処進退には朱子学の影響があるとの説もあるが、土田 (2014, p. 44-48)は慎重な姿勢を示し、日本の思想史の中に活きた形で朱子学を取り込んだ最初期の人物としては、清原宣賢・岐陽方秀とその門人を挙げる。また、室町時代には朱子学は地方にも広まっており、桂庵玄樹は明への留学後、応仁の乱を避けて薩摩まで行き、蔡沈の『書集伝』を用いて講義をし、ここから薩南学派が始まった。また、土佐では南村梅軒が出て海南学派が始まった。
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