海舶互市新例と享保の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:00 UTC 版)
「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「海舶互市新例と享保の改革」の解説
詳細は「正徳の治」、「海舶互市新例」、「享保の改革」、および「幕政改革」を参照 日本では元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木(桑・漆・茶・楮)・三草(紅花・藍・麻または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田がひらかれて塩の量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織がつくられ、また、灘五郷や伊丹の酒造業、有田や瀬戸の窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。 人と物の流れが活発になるなかで、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地にうまれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」だったという評価がある。大石慎三郎は「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しくつくった都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」と述べている。18世紀初頭の京都と大坂の人口はともに40万近く、さらに江戸は人口100万人前後に達しており、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。 このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んで金・銀・銅が大量に生産され、それと引き替えに海外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向がみられるようになった。それに対応したのが新井白石の海舶互市新例(長崎新令)だった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものだった。清国船は年間30艘、交易額は銀6000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3000貫に制限され、従来は輸入品だった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。 8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく、大胆に政治改革を行った(享保の改革)。吉宗が最も心をくだいたのは米価の安定だった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準だった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令、堂島米会所の公認などを行った。「米将軍」と称されたゆえんである。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高の制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置その他の改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化やゆきすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉もあって、百姓一揆や打ちこわしが頻発した。 なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠が1726年頃に吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史のなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、のちには幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想のうえでも新しい展開のみられた時代でもあった。 近代における世界の一体化へ
※この「海舶互市新例と享保の改革」の解説は、「近世から近代にかけての世界の一体化」の解説の一部です。
「海舶互市新例と享保の改革」を含む「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事については、「近世から近代にかけての世界の一体化」の概要を参照ください。
- 海舶互市新例と享保の改革のページへのリンク