おおおか‐ただすけ〔おほをか‐〕【大岡忠相】
大岡 忠相 (おおおか ただすけ)
1677〜1751 (延宝5年〜宝暦元年) |
【町奉行】 享保の改革を支え、名判官といわれた町奉行で、1万石の大名へ出世。 |
幕臣。書院番から目付、山田奉行、普請奉行などをへて、将軍吉宗により1717年、江戸南町奉行に登用された。町火消制度の開始、小石川養生所や目安箱の創設をはじめ、商人の仲間・組合を公認するなど、享保の改革を実務で支えた。後、武蔵野新田開発にもあたり、寺社奉行をへて48年三河国西大平藩一万石の大名となり、越前守に任ぜられた。 |
年(和暦) | ||
●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | 4才 |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | 5才 |
●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 | 10才 |
●1698年 (元禄11年) | ■江戸大火(勅額火事) | 21才 |
●1702年 (元禄15年) | ■赤穂浪士討ち入り | 25才 |
●1703年 (元禄16年) | ■江戸開府100年 | 26才 |
●1705年 (宝永2年) | ■御蔭参り流行 | 28才 |
●1707年 (宝永4年) | ■富士山噴火 | 30才 |
●1718年 (享保3年) | ■御蔭参り流行 | 41才 |
●1719年 (享保4年) | ■相対済し令 | 42才 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸大火 | 43才 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸町火消しいろは組を設置 | 43才 |
●1722年 (享保7年) | ■小石川養病所設置 | 45才 |
●1732年 (享保17年) | ■西日本に蝗害 | 55才 |
●1742年 (寛保2年) | ■公事方御定書制定 | 65才 |
●1744年 (延享元年) | ■神田に天文台設置 | 67才 |
・小川 笙船 | 1672年〜1760年 (寛文12年〜宝暦10年) | +5 |
・太宰 春台 | 1680年〜1747年 (延宝8年〜延享4年) | -3 |
・絵島 | 1681年〜1741年 (天和元年〜寛保元年) | -4 |
大岡忠相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/10 05:06 UTC 版)
大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣、大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍徳川家重の御側御用人として幕政においても活躍した大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。
- ^ 『系図纂要』では12月16日。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』
- ^ 『系図纂要』
- ^ 宇野脩平『大岡越前守忠相』
- ^ a b 山口静子. “小石川養生所初期の医療活動について”. 2020年7月21日閲覧。
- ^ 『徳川実紀』
- ^ 「両替年代記」「元文金銀引替一件」「銀切賃ニ付両替店員処罰」『東京市史稿』産業篇第十四
- ^ a b 大石(2006)、p.234
- ^ 大石(2006)、pp.234 - 235
- ^ 大石(2006)、pp.235 - 237
- ^ 大石(2006)、p.235
- ^ 大石(2006)、p.237
- ^ a b c 大石(2006)、p.238
- ^ a b 大石(2006)、p.239
- ^ 『大岡忠相』(大石学著・吉川弘文館)274-277頁、『実録 江戸の悪党』(山下昌也著・学研新書)44頁、『江戸の名奉行』(丹野顯著・新人物往来社)78-79頁。
- ^ 殺人犯の直助とは別人の権兵衛だと言い張っていた男を、裁判の最後に「これ直助」と呼び、つい返事をしたところを捕えたというエピソード。
- ^ 吉澤孔三郎 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第五話 息子爭ひ」『世界童話大系.第10巻(印度篇)』世界童話大系刊行会、1925年10月 。『第五話 息子爭ひ 一人の女が男の子をつれて、溜池のそばに行きました。そしてまづ男の子に水浴をさせたあとで、自分が水につかつてゐますと。一人の女鬼が通りかかりました。女鬼は、池のはたで遊んでゐる男の子を見ると、それを食べて見たくてたまらなくなりました。で、優しい言葉で暫らく男の子をあやしてゐましたが、やがてその子をとつて、とつとつと驅けだしました。母親は大さう驚いて、そのあとを追つかけました。そして追つつくが早いか、「わたしの子供を盜んで、どこへつれて行くんです。」と詰りました。すると女鬼はすまし返つて、「子供を盜んだとは誰のことです。これはわたしの子供ですよ。」と云ひました。かうして二人が云ひ爭つてゐますうちに、段々と人だかりがして、たうとうマホサダーの目につきました。マホサダーは二人の女から話を聞くと、地面に一本の線をひいて、「さあ、この上に子供を立たせるがいい。そして一人は兩手を、一人は兩足を摑んで、引つぱりくらをしなさい。それに勝つたものが、本當の母親です。」と云ひました。そこで二人の女は、地面に條を引いて、その上に子供をおくなり、一人は兩手を、一人は兩脚を摑んで、一生けんめいに引つぱりました。男の子は痛くてたまりませんので、大きな聲で泣き出しました。その聲を聞くと、母親は可哀さうになつて、覺えず摑んでゐる手を放しました。
マホサダーはこれを見ると、人々に對つて、「子供に優しいのは、母親の心だらうか。それとも他人の心だらうか。」と尋ねました。「それは云ふまでもなく、母親の心ですよ。」と、人々が答へました。「それでは、子供をはなしたのが母親だらうか。放さなかつたのが母親だらうか。」とマホサダーが尋ねました。「勿論子供を放したのが母親ですよ。」と、人々が答へました。するとマホサダーは、「その通りぢや。」と云つて、女鬼を指しながら、「この女は、瞬きをしない、眞赤な目をしてゐるし、それは日が照つても、影が地面にうつらない。だから鬼だといふことがすぐわかる。」と云ひました。女鬼は恐れ入つて、子供を盜んだことを白狀してしまひました。王さまはそれをお聞きになつて、マホサダーに會ひたいとお考へになりました。しかし大臣はやはりいろんなことを云つて、それをお止めしました。』 - ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、185-186頁。
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、187頁。
- ^ “大岡忠輔氏が死去 元クノール食品社長”. 日本経済新聞. (2018年12月17日) 2021年9月17日閲覧。
- ^ “「超高速!参勤交代 リターンズ」追加キャスト7名、古田新太が大岡越前に”. 映画ナタリー (2016年2月5日). 2016年2月5日閲覧。
大岡忠相
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「暴れん坊将軍シリーズの登場人物」の記事における「大岡忠相」の解説
(演:横内正、出演シリーズ:吉宗評判記 - VII/ 宮崎嗣久、出演シリーズ:IV/ 田村亮、出演シリーズ:VIII - 2004年SP/ 岡田翔太、出演シリーズ:VIII/ 平井亮裕、出演シリーズ:第12シリーズ/ 大和田伸也、出演シリーズ:2008年SP・CR新暴れん坊将軍) 第1話で切腹した松本甲斐守の後任の南町奉行を拝命される。吉宗の古馴染み。妻帯者だったシーズンもある。
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